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□cry for the moon
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 俺には、惚れた女がいる。


 束の間の浅い眠りから覚めた目に映るのは、横を向いていたせいで白い壁紙だ。

「思い出して、もう何年経つと思ってんだ……」

 自嘲の呟きが洩れるがそれは今の自分に向けてのものか、それとも過去の己に対してのものなのか。

 何れにせよ、夢という形を借りた過去の記憶の再生に、彼は大きく息を吐く。

 彼が見る過去の記憶というのは、幼い日のものではない。

 彼が見ているのは、いわゆる前世と呼ばれる、前に生きた自分の記憶だった。

 それは物心ついた頃には既に彼の中に存在していて、そのせいか幼い頃から随分としっかりした子供だと周囲から扱われていた。

 だが、周囲の大人たちはそんな彼を、妹を大事にする兄としてしっかりしようと大人びているのだと認識していた。

(そりゃ大事にするだろ。なんたってあいつは)

 彼は目の前の壁の向こうの部屋で休んでいる『妹』を思い浮かべる。

(あいつは――……)

 しかし現代を生きる自分の理性が、彼にそれ以上を続けさせることを許さない。

 彼は唇を噛み締め、一瞬辛そうな表情を浮かべるとそれまで見つめていた壁に背を向け、頭から布団を被ってきつく目を閉じた。

 彼の名は、原田左之助。

 前の生では、新選組十番組組長を任じられた男だった。

 けれど新しく受けた生でも、彼は原田左之助だ。

 幕末の苛烈な日々とその後の穏やかな年月は、気付けば昨日のことのように彼の中に甦っていた。

 勿論、人生の大半を共に過ごした存在のことも、原田は思い出している。

 けれど原田は、想う存在のことを他言することはできずにいる。

(言える訳無えだろ)

 それは相手が過去を思い出していない以上の理由があるからだ。

(この想いは、あいつを穢す……)

 想う存在を傷付けたくない、と原田は気持ちを隠しひたすらに過保護な兄を演じて、周囲と何より自分を誤魔化す。

 そうすることで、自分が彼女の傍にいることが当たり前なのだと思わせるように。



 枕元の目覚ましのアラームが鳴るのと前後して部屋のドアがノックされる音も響いて、原田は被ったままの布団の中でゆっくりと目を開ける。

 短時間だが深い睡眠は新選組時代に得たもので、このおかげで原田は体力を維持していられる。

 過去の記憶が役立ったのはこの程度だと苦く笑いながらも、寝不足の顔を見せずに済むことに安堵しつつ、起き上がりノックに応じる。

 すると、待ちかねたように勢いよくドアが開いた。

「お兄ちゃん、おはよう!」

「おう、おはようさん。――千鶴」

 原田は兄としての表情と声で、千鶴と呼んだ少女に応える。

「お兄ちゃん、また時間割確かめてないでしょ」

 部屋のカーテンを大きく開けた千鶴は、そのまま机の上に放り出されている原田の通学カバンの中を覗いて笑う。

「足らねえ教科書は、他のクラスの奴に借りるからいいんだよ」

「いいんだ、じゃないよお兄ちゃん」

 困ったような笑顔で振り返った『妹』である千鶴の顔は、原田の記憶の中にある出会った頃と寸分違わぬもので、原田は一瞬奥歯を噛み締めながらそれを受け止める。

「兄の恥は妹の恥、なんだよ。だから時間割、揃えとくね」

 言うなり千鶴の手は、原田が答えるよりも早く動いている。

「いつもありがとな、千鶴」

 素直な兄からの感謝に、千鶴の肩が笑いを表すように小さく揺れた。

「これは妹の特権だから、お兄ちゃんは気にしないでいいの。――それより顔洗って支度しないと、朝ごはん食べる時間無くなっちゃうよ」

 千鶴の言葉に原田は壁時計に目をやり、布団から足を出す。

 もとより原田は、千鶴の言葉に逆らうつもりは無いからだ。

 たとえそれが妻ではなく妹の言葉であっても、自分に対する気遣いに差はないと原田は受け止めて。

 それでも微かな、抑え切れなかった胸の痛みを抱いて、原田は洗面所へと向かうのだった。




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