操花の花嫁《参》
□序巻
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≪序巻 奪われた預言≫
黄昏時(タソガレドキ)…───
世界は、そのわずかな時間にあらゆる神秘を地上に届け、あらゆる不思議を置いていく。
それは、九死に一生といえる奇跡的な出来事や、神隠しや、妖魔などといった不穏な胸騒ぎ。二度と体感できない出来事や、願いの成就(ジョウジュ)といった人ならざる者の気配も、中には含まれていた。
あるものは、沈みゆく夕日の中で新たな人生を歩みだし、あるものは、この世から夕日の中へその姿を消していく。
───…夢もまた然(シカ)り。
「預言が舞い落ちました…──」
地上に降り注ぐ金色の陽光が差し込む中、すだれの奥に隠されたその人物の顔は見えない。
上座とも呼べる場所で、いかにも礼儀正しく正座をし、逆光とすだれの相乗効果で見えない顔は、年若い女の声を聴く者すべてに想像させた。
凛としていて落ち着いた声。
かすかにわかる編みこまれた長い髪と、浮き出た影の線が、美しいであろう彼女の姿を連想させようとする。
だが、彼女を除いてここにいるのは、たったの二人。
長い白髪を毛先のほうで束ねた格式を重んじる老婆と、少女というよりかは幼女と呼べる小さな女の子がひとりだけ。
それも、ひれ伏すように深く頭を下げ、預言の到来をつげた”幾姫(イクツヒメ)”の言霊を待っているのだから、その想像は先へと進まない。
「──…ですが、夢送(ユメオクリ)は必要ありません。」
「「ッ!?」」
予想外の言葉に、ひれ伏していた幼女は反射的に顔を上げるも、すぐさま老婆に叱られて、その顔をあわてて元に戻した。
至近距離に見える畳(タタミ)の目が、妙な胸騒ぎを連れてくる。
心臓の鼓動は、ドクドクと激しく脈を打ち始め、冷たい汗が背筋をつたい、不安をあおる。
なぜか嫌な予感がすると、定まらない視線を必死に畳の目に押し付けながら、幼女は幾姫の次の言葉を待っていた。
同じ格好のまま、ジッと無言で耐えている時間が長く感じる。
「よって、この預言が忍びたちに伝えられることはありません。」
先の言葉が嘘ではないのだと、付け加えるようにして放たれた言葉は、やはり耳を疑うような内容だった。
そもそも夢送とは、預言者ともいえる幾一族の夢見が見た「天からの指令」を地上に届ける大切な儀式。夢ともいえる預言を忍びと称される彼らと共有することで、物事を本来あるべき方向へ導き、世界の均衡を保つために必要なもの。
その重大な役割を任されてきたのが、俗にいう幾姫。宝玉(ホウギョク)の里に住まう、幾一族の頭領が代々それを守ってきた。
それこそ、何千何百年と夢見によって導かれてきた世界の姿は、預言とともに存在してきたといっても過言ではない。
その掟を夢見自ら放棄することは、決してあってはならない最大の禁忌。
幾一族の夢見として、世界の幾姫になった以上、守らなければならない絶対の理(コトワリ)だった。
「お言葉ですが、幾姫様。」
何年も幾姫に仕えてきたのだろう。
白髪というよりかは、自然と灰褐色に変わった髪色をした老婆は、誰もが意見するのをためらわれる存在に向かって、恐れもせずに顔をあげた。
教育係…世話係……いや、なんにせよ、祖母と孫と呼べるほど年の離れた若き頭首に、この老婆は睨みすえるかのような鋭いまなざしを送っている。
「幾姫ともあろうお方が、夢送をなされぬということは、あってはならないことにございまする。幾の民…われら、宝玉の里に住まう者にとって、夢見がもたらす預言の大切さは、重々承知のはず……それを姫自らが、役割を放棄し、掟に背(ソム)くなどという…──」
「預言が、そのように命じたのです。」
「──…あ…ありえませぬ!!」
黒い影へと説教じみた意見を並べ立てていた老婆は、言葉を遮るようにして届けられた真実に、戸惑いと怒りを浮かべながら立ち上がった。
「に…にわかに信じられませぬ。天より授かりし預言が、神聖なる幾の民……それも、夢見の位にあらせられる幾姫さまにもたらされるなど、聞いたことがありませぬ。先代…先々代……どれほど時代をさかのぼったところで、そのような症例はないのにございまするぞ!?」
はぁはぁと息を切らせ、大きく見開かれた老婆の瞳にうつる幾姫は、何も答えない。
沈みゆく太陽の光にその姿、顔をさらさないまま、縫い付けられた影のように、すだれのかかった奥の玉座でじっと座っていた。
「………。」
無言の沈黙。
頭を伏せていろと命じた老婆の言いつけを従順に守っている幼女にとっては、いささかつらい現状でもある。依然、早まった鼓動は落ち着かず、頭を上げられないからこそ、余計に想像してしまう現場の光景が、いやでも顔をあげさせようとしてくる。
何か答えてほしい。
どちらでもいいから、何か言葉を発してほしいと、幼女が強く目をつぶったところで幾姫の影が、わずかに揺れ動いた。
「わたくしは、もうすぐ夢見ではなくなります。」
「「ッ!?」」
その衝撃は、もはや計り知れない。
あれほどドキドキとうるさかった心臓もぴたりと鳴りやみ、呼吸を早くしていた老婆の息も止まっているように感じる。
もしかして、本当に死んでしまったんじゃないかと疑えるほど、世界は静かに止まっていた。
それはまるで、嵐の前の静けさのように、ただならぬ空気に満ちている。