操花の花嫁 弐
□終巻 桃幻花
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終巻 桃幻花
<其ノ一 涙魂の渦(ルイコンノウズ)>
───なぜ?
それは、とても深い悲しみ。
───なぜじゃ? 朱禅……
欲におぼれ、欲にまみれた愛しい者への疑問。
───そんなものに頼らずとも、わらわは……
自責と後悔の念が胸を締め付ける。
「……誰?」
そんなこと、聞かなくてもわかっていた。
「──ッ!?」
一陣の風がホホを撫でる。
懐かしい香り、深い森の木漏れ日と木の葉の音、わずかな鳥の囁きが、意識の奥から溢れだしていく。
それは、血に刻み込まれた記憶。
強く握りしめた小さな種が見せる、束の間の幻…───
「……これは……」
天をも貫かんばかりに、そびえ立つ無数の木々。太い幹には色鮮やかな緑のコケが生え、濃厚な空気の密度に意識が戸惑う。
まるで自分の身体が、別の誰かのようにヒドク軽かった。遠くから自分を見つめているように、その人物はスクッと立ち上がる。
「……和歌さんの記憶?」
口にしてそうだと思う。
そして同時に、華は意識の外に追い出された。
「急がねばなるまいな。」
さきほどから耳に届いているのは、小さな動物の鳴き声。焦燥感と緊迫感を含んだ、妙に心揺さぶられる生き物の悲鳴。
耳を澄ませて、その方向と位置と確認すると、和歌はそっと地面をけった。
流れていく森の風景。
ザワザワと枝が落ち着きなく会話し、急ぐ少女を通すように道を開けていく。そうしてたどり着いた場所では、まさに絶体絶命といった様子の小さな野兎が、甲高い狂声を鳴き続けていた。
「これ、もう鳴くでない。」
羽の生えた鳥のようにふわりとその場に舞い降りて声をかけてやると、先ほどまで混乱に乗じていたその鳴き声はピタリとやむ。
そうして目の前に現れたのが和歌だとわかると、小さな丸い目でジッと見上げ、安堵したように野兎は小さくうなずいた。
「おぬしもまた、わかりやすい罠に引っかかったものじゃのう。」
眉根を少し寄せて苦笑する和歌に、野兎は申し訳なさそうな声を出す。
「別に非難したわけではない。わらわが、先に見つけることが出来てよかった。」
人工的に設けられた落とし穴の中から和歌に助け出された野兎は、尖った耳を大きく垂らして、甘えるように和歌にすりよった。
すこし、くすぐったい。
まだ、巣から出て日が浅いのだろう。
森の危険に不慣れな様子だった。
「次は、助けてやれぬかも知れぬ。」
「………。」
「生きたくば、それ相応の知識を身につけることじゃ。」
頭を撫でながら諭してやると、野兎は心地よさそうに瞳を閉じる。やがて、理解をしたように深くうなずくと、和歌の腕の中からポンと軽く飛び出した。
「達者でな。」
元気な様子にホッと胸をなで下ろす。
お礼を言うように、一度だけ振り返った小さな野兎の姿が見えなくなるまで、遠くなっていく小さなその影をジッと見送った。
「おい、そこの女。」
森がひどくざわついた。
「動くな!!」
背中にあてがわれた鋭利な刃物に、気付かないわけではない。一つのみならず、背後には複数の殺気。
それも男ばかりの、荒々しい足音と怒声をたずさえた激しい喧騒。
おおかた、先ほどの"獲物"を逃がしたことに対する咎(トガ)めであろう。