ソレが無いのは致命的!

□裏:02
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 その日、担当する公判を終えて控え室に向かう途中、いつものように慣れ親しんだ声で呼ばれた。
 どことなく、常よりも浮かれた調子の彼がそこに居たので、恐らく依頼人の無罪を勝ち取ったのだろう。
 ダラシナイ顔だと指摘すれば、ぶくっと頬を膨らませ。

「お前ね、せっかくの上機嫌に水を差すようなこと言うなよ。せめてそれは良かったな、ぐらい言えないわけ?」

 口調は拗ねたような声音ながら、瞳はどこまでも楽しげな色を湛え、その唇の端はしっかり笑みを象るのだ。
 その表情はどこまでも、「計算しているのかね?!」と詰りたくなるほどには可愛らしく。
 そう見えてしまう己の視界がどうかしているのだろうなと、胸中で溜息を吐いた。

「ふム、最初から私に褒めてほしいと、素直に言えば良いものを。それは良かったな」
「ものっすごく上から目線かつ棒読みで言われても嬉しくもなんともない! ていうかいつ僕が褒めてほしいなんて言った!?」


 胸のうちにある動揺を悟らせぬよう、わざとからかうような言葉をかけることにも、随分と慣れてしまった。
 もともと成歩堂は、頭の回転が良いのだろう。
 ツッコミ気質も相まって、私たちの会話は他愛もない話題であっても盛り上がる。

 彼からの不意打ちにさえ注意すれば、このようなひと時は心地良く、何より大切なものに思えた。
 だからこそ、この関係性を壊すようなことはしたくなかった。
 タチの悪い無自覚な小悪魔ぶりを、私が我慢すれば良いだけの話だ。

 どのような状況下であっても、常に冷静沈着を心がけて生きてきたのだ。
 己の理性についてはそれなりに自信もあった。
 上機嫌な成歩堂から二人で飲みに行こう、との誘いを受けたのも、そのような根拠に基づいたものだったのだが。


「少し、飲みすぎではないか?」

 一時間ほど飲み進めたところで、彼のピッチは明らかに早く、泥酔するのではと懸念がよぎる。
 確かに翌日は休みとはいえ、このままでは酔い潰れてしまうのではないか。

 そう思い、注意を促してみるのだが、にへらと赤ら顔のまま笑み崩れるばかり。
 箸が転がっても笑い倒しそうな雰囲気に、嫌な予感に胸中で眉を顰めた。


 そうこうしているうちに、成歩堂が休日の予定を聞いてきたため、ここ最近の慌ただしさを振り返り、後回しにしていた家事に追われて終了だろうと返答する。
 貴重な休日ではあるが、居心地の良い空間を自ら創り上げる作業は、決して嫌いではないのだ。
 朝からの行動予定を思い浮かべていたところ、身を乗り出してきた成歩堂が、楽しげに言った。


「僕まだまだ飲みたい気分なんだけどさ。宅飲みしないか? 場所は御剣んちで」

 唐突な提案に驚く。
 これまでにも深く酔う機会はあったが、かといって互いの家に寄るようなことは、一度として無かったからだ。

 私の部屋に、成歩堂が来たいと言い出すこと自体、これが初めてのことである。
 怪訝に思うのは仕方がないことだろう。
 こちらの沈黙をどう解釈したのか、成歩堂はずいと近づいてくるなり私の手を握り。
 至近距離から上目遣いでじっと見つめ、「ダメ?」と小首を傾げたのだ。


 その、仕草の。
 いやその存在自体の、可愛らしさたるや…!


 そろそろ愛情を通り越し、憎しみを抱きそうになるほどには、凶悪すぎた。
 思わずバッと音をたててしまいそうなほど、不審な態度で顔ごと視線を逸らせてしまったが、酔っている彼はそこまで気にならなかったようだ。


「ダメということもないが……」

 思わずそう、咄嗟に答えてしまっていたが、すぐさま迂闊な返答だったと悟る。

「いや、しかし急すぎるだろう、来客用の布団なぞ持ち合わせが…」
「やったね決まり! 布団なんて気にしなくていいよ、いざとなったら床ででも寝れるから」

 何とか理由を並べて断ろうとするが、時既に遅く、成歩堂に押し切られる形で頷くことになってしまった。
 第三者の目がある場所でならば働く理性も、個人的空間で二人きりとなれば、その限りではない。
 無論、この想いを吐露するような事態は全力で避けるつもりだが、だからといって容易に受け入れられる状況ではなかった。

 だが、断固拒否の姿勢を貫けなかったのは、その顔がパッと明るく輝き、嬉しそうに笑みを向けられてしまったからだ。
 一瞬で花が咲いたような、眩むほどの笑顔を見せられて、どうして断ることができるというのか。


 私はそこで。
 ひとつの確かな、取り返しのつかない判断ミスを、犯してしまった。
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