ソレが無いのは致命的!

□続:03
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 溢れる多幸感に満たされた私と、その目の前で微妙な顔を隠せずにいる成歩堂、という対象的な構図は、しかし。
 ふと気づけば、思いのほか時間に余裕がなくなっていたため、互いに途中で止まっていた朝食を再開することへと変わった。

 競うようにトーストを口に入れ、すっかり冷めてしまった残りの紅茶を飲み干す。
 彼が食器ぐらいは洗わせてくれ、と言うのでそれに甘え、その間に歯を磨いた。
 僕も歯を磨きたい、と言われたため、出張時などに使用するためストックしてあった、使い捨ての歯ブラシセットを手渡すと。

「うーわっ、何これ、この歯磨き粉、有名ブランドのロゴ入ってんだけど?!」
「ああ、そのブランド店でスーツのオーダーメイドを頼んだ際、粗品にと受け取ったものだからな」

 そう言えば、途端にジトッと目を眇めた成歩堂。
 行儀悪くチッと舌打ちをした後に「これだからブルジョワは…」などと、ぶつくさ悪態をつき始めた。
 肩を竦めて「早く磨きたまえ」と取り合わずに言えば、ぶくっと頬を膨らませてこちらを睨むので。

 その顎をぐいと右手で捕え、大きく一歩近づけば。
 ただでさえ円らな瞳が、驚きに見開かれ丸くなった。
 その様を至近距離で見つめながら、私は笑う。


「いつまでも拗ねているのであれば、君の口内をこの私が、優しく、丁寧に、隅々まで磨いてみせることも、やぶさかではないのだが?」
「うんごめん自分で磨くからホントまじごめんなさいッ!!」

 効果はテキメン、というものなのだろう。
 ビシッと背筋を伸ばした彼は、くるりと背中を向けて洗面所へと走っていった。
 その姿があまりにも必死さを醸し出し、くつくつと腹の底から可笑しさが込み上げ、ともすれば吹き出せそうだ。

 ああ、本当に彼との会話は楽しい。
 平日の朝から、このような満ち足りた時間を過ごせるなどとは、ほんの二年ほど前の私には到底、考えられなかっただろう。
 人生なにが起こるかわからない、とはよく言ったものだ。


「忘れ物はないか?」
「うん、大丈夫。てか、本当にごめんな、スーツ……クリーニング代はちゃんと出すから」
「気にするな、と言ったところで無理だというのなら、そうだな。次に二人で食事をする際にでも、奢ってくれたまえ」
「うぅ。あ、あんまり高いのは勘弁な…?」

 そのような、他愛もない会話を玄関に向かいながら交わす。
 靴を履くために俯いた、その背に向けて私は「成歩堂」と、その名を呼んだ。

 うん?
 と振り返る、その顔を真っ直ぐに見つめながら。

「口づけは会ったその日に最大一回、だったな。今ここで、その機会を得たいのだが」

 言えば、途端にピキンという擬音が聞こえてきそうなほどの勢いで、その体は見事に固まった。
 はくはくと、その唇が何度か開閉する間も、ただじっとその様子を見つめる。
 彼が応えに窮している間に、スッと距離を縮めれば。
 いとも容易くその体を壁際へと誘導することができてしまい、その警戒心の無さに胸中で嘆息する。

 これだから、と思うのだ。
 これだから、この男はタチが悪いのだ、と。

 私の劣情を知ってなお、彼は無意識的になのか、どこまでもその無防備さを晒すのだ。
 信頼している、という言葉のもとに、その懐につけ入る隙を隠そうともしない。
 その脇の甘さが、だからこそ私を図に乗らせているのだと、いうことを。

 成歩堂はきっと自覚し、そのような己の言動に自己嫌悪しながらも、けれど「御剣のことが大好きだから」と、免罪符のように言うのだ。
 なんという罪作りな男だろう、いっそ憎めたならばどんなにか楽だったに違いない。

 面倒くさい男だ、どこまでも。
 だが、そのような彼を、私は決して諦めないと。
 そう、決めてしまったのだから。


「駄目だろうか…?」

 意識して憂い顔を作り、掠れた声音でそう問えば。
 成歩堂は目を見開き、次いで勢いよくその頭を横に振るのだ。

「だ、駄目……じゃ、な、ない…けど……ッ」

 言い切る頃には、その瞳にはどこまでも悲壮感が漂い、決死の覚悟でもしたのだろうか、ゴクリと喉仏が上下した。
 恐らくは数秒の間に、この上もなく葛藤し逡巡し、昨夜からの自身の発言に対して後悔でもしているのだろう。

「じ、時間! 今はホラ時間ないから……っ…!」


 思い出したようにそう、往生際悪く動く、その唇を。
 己のソレで塞いだ。

 ギュッと強く瞑られた目と、緊張からか完全に息を止めて固まる体が、可愛らしいなどと思えるのだから。
 本当に、この感情は厄介だ。

 ほんの数秒にも満たない、触れるだけの口づけは。
 だが彼にとって、通算すればもう三度目にもなるというのに、涙目になるほどの衝撃的な瞬間だったのだろう。
 頬や耳をこれでもかと朱色に染めながら、成歩堂は逃げるように、「ホント時間無いからもう行くから!」と、勢いよく飛び出していった。

 その、脱兎の如く遠ざかる背中を眺め、私はふと。


「……ブランド店の歯磨き粉とはいっても、市販のソレと変わらぬものだな」

 そのような、些末なことを感想として抱き、ひとり笑った。
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