ソレが無いのは致命的!

□続:03
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 ふと、意識が浮上する感覚と共に、ゆっくりと目を開いた。

 もう朝か、と認識できた瞬間から、脳内は急速に回転しだし、習慣となっている動作でベッド脇の時計を確認する。
 本日も目覚まし機能が役割を果たす前に、起床することができたようだ。
 何となく清々しい気分になるのは、以前成歩堂から「目覚まし鳴る前に起きるとか、ホント無理! よくできんなぁ」と、しきりに感心されて以来のことだ。

 我ながら何とも単純なことだと、己の心の動きに呆れつつも、どことなく楽しい。
 彼という存在はこのように、良くも悪くも私という人間に影響を与えるのだ。

 そんな、成歩堂龍一という男が、今。
 ついと顔を横に向ければ、穏やかな朝日の中でスヤリと、その無防備な寝顔を晒しているので。

 意図せず笑みが零れてしまった。
 もしも第三者が見ていたならば、随分とだらしのない顔だと呆れられたに違いない。


 それにしても、事ここに至るまでの経緯を思い出せば、零れる笑みは苦笑に変わらざるをえなかった。
 寝こける男を起こさぬように、ゆっくりとベッドから抜け出し、浴室乾燥機にて干しておいたスーツの状態を確認する。
 昨夜のうちに付着物を洗い落とし、脱水しておいたため、胃液と食物の混ざり合った独特なあの臭いはもうしなかった。

 赤と青の二着は、どちらも乾ききっているようだったが、さすがに皺は取れていない。
 私としては応急処置をしただけであり、後日きちんとクリーニングに出す予定だが、果たして成歩堂はどうだろうか。
 不精なあの男のことだ、面倒臭がって「アイロンかければ大丈夫だろ」とかなんとか言いつつ、いつまで経ってもアイロンなどかけずに放置する様子が、目の前に浮かぶようだ。

 ふぅ、とひとつ溜息をつき、クリーニング屋へ持ち運ぶための紙袋に、二着のスーツをまとめて入れる。
 それから顔を洗っていつものように、出勤の準備を始めた。

 今日は平日であり、彼も私も変わらずに仕事が待っている。
 朝食は軽めにトーストとサラダ、インスタントのスープでひとまず我慢してもらおう。
 コーヒーは置いていないため、朝の一杯と決めている紅茶を淹れた。

 昨夜は、まったくもって想定外のことが起こり、さすがの私も対処に苦労した。
 いま思い返しても、本当に強烈な経験となったものだ。

 彼の混乱ぶりは、どこまでも盛大なものだった。
 先日の不意打ちによる口づけが、予想以上の効果をもたらしたのだろう。
 こちらの一挙一動を気にかけ、注視し、落ち着きのないその態度は。
 まさしく「御剣を意識しまくってます」と明らかに、言っているようで。

 思わず頬が緩んでしまうのを、止めることができなかった。
 そうして、そのような私の顔を目にした彼は、殊更にその瞳をウロウロと彷徨わせ、まるで自棄にでもなったかのような勢いで、酒を飲んだのである。

 少し飲み過ぎではないか、そう注意する頃には、すっかり酔っているようだった。
 その間にも反応が楽しく、つい調子に乗って彼を追い詰めてしまったことは否めない。
 成歩堂の心情としては、飲まなければそれこそ、やっていられなかったのだろう。

 そこまでわかっていながら、それでも私としては、追撃の手を緩めるつもりはなかった。
 我ながらつくづく意地の悪いことだと、頭のどこかでそう理性が囁く。

 だが一方で、私への気持ちに素直にならず、認めようとしない成歩堂が悪いのだ、とも思うのだ。
 先日の数秒にも満たなかった、あのような口づけひとつで、こんなにも顕著に反応を示しているというのに。
 けれど成歩堂は、そのような自身の変化から目を逸らす。

 そうして、酔った勢いに任せ、とても法曹界に身を置く者の発言とは思えぬような、拙い理屈を展開させるのだ。
 私に向かって「好きだ」と言い放ちながら、「キスするなんて間違ってる」と苦悶の声で訴える。
 かと思えば、縋りつくような勢いで、「離れたくない」などと泣くのである。

 なんという、見事なまでに自分勝手な、破綻した主張だろうか。
 成人男性の盛大な泣き顔を見ることになるとは、さすがの私にも予想外すぎたため、不覚にもいささか絶句してしまった。

 けれどすぐさまこの脳内は、今この時どう振る舞えば良いのか、という一点をもとに廻る。
 そうして事態はこの上もなく、私にとって有利に運べることに、気づいた。
 何しろ成歩堂の言葉には、決定的に足りないものがあったのだから。
 私はそれに、気づかぬ振りをして、ただ希望を口にするだけで良かったのである。


「では、今後の私たちの関係性は、親友ではなく恋人同士ということか……夢のようだな」
「うんっ……は、…………へ?」

 ただそれだけで、私たちの関係性はいとも容易く、劇的に変わることができたのだ。
 迂闊な成歩堂は、こちらの言葉をよく咀嚼もせずに飲み込み、勢い込んで頷いたのだから。


「ううう……吐く…!」

 まさかその代償が、スーツに甚大な被害を及ぼすものだとは、思ってもみなかったが。
 混乱の極みに至ったのだろう、成歩堂はひたすら胃の中のものを吐き、そのまま意識を手放してしまった。

 救急車を呼ぶべきかと考えたが。
 店のソファに横たわったその口元からは、何とも穏やかな寝息が漏れているだけのため、自宅に連れ帰ることを選択した。
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