ソレが無いのは致命的!
□裏:03
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そうして、いま。
悲痛な叫び声が響き終わると、途端に重苦しい沈黙が横たわった。
はっきりと目を見開いた成歩堂は、信じられないものを見たと言わんばかりの顔をして、口をパクパクと開閉する。
その瞳は忙しなく私の顔と下半身、そして己の右手へと動き、体はガクガクと可哀想なほどに震えていた。
「おま、なん、……な、」
言葉にならない多くの感情が、震え掠れた音になって漏れる。
だが、それを突きつけられたところで、こちらとしても沈黙を返すしかなかった。
脳内が混乱しているのは、なにも成歩堂一人だけではないのだ。
むしろ私こそ、思考回路は鈍器で殴られたほどの衝撃を受けて、完全に機能を停止。
突きつけられた現実に、打ちのめされていたのである。
どう言葉を取り繕ったところで現状は変わらず、むしろ何か言葉を発すれば、余計に状況は悪くなるだけだ。
そうわかるからこそ、何も口にできない。
一秒が永遠のように長く重く感じられる空間にあって、徐々に舞い戻ってきた理性を総動員し、まずは最優先事項を片づけるべく動いた。
こちらの身動きに、過剰なまでに反応した成歩堂の体がソファからずり落ちる。
だが、私にどんな声をかけることができるというのだろう。
淡々と、テーブルの上にあったティッシュで己の手と、下半身を拭う。
その間も、ただ沈黙を貫く以外に彼を守る方法が、思いつかなかった。
「成歩堂、これで、手を」
言い訳を述べるつもりなど、無い。
魔が差しただけだ、酔っていたのだと言ったところで、無様さが上塗りされるだけだ。
そこまで思い至れば、言い難い絶望感と共に冷静さを取り戻し、淡々と成歩堂に声をかけることすら、できた。
そのような私に対し、彼は沸々と怒気を孕ませながら、こちらを睨む。
「なん、なんだよ、お前……なんで、こんな」
唸るような、掠れた低い声で問われたけれど。
彼の求める答えなど、最初から手元にはない。
明らかに傷つけ、取り返しのつかないことをしたのだという、この事実にただ俯くだけだ。
心底から信頼し、親友だと心を許していた人間から、手ひどい裏切り行為を受けた彼の、その揺れる瞳を見続けることもできず。
「……手を、拭きたまえ」
ただ、目の前の対処すべき事柄にのみ、意識を集中させる。
そうすれば、みっともなく、恥も外聞もかなぐり捨てて泣けそうな自分を、律することができるのだから。
泣きたいのは親友から裏切られた成歩堂であって、私ではないのだ。
「っ…!」
バッと音がしそうなほどの勢いで、私の手からティッシュが奪われる。
そうして無言のまま、成歩堂は一心に己の手を拭うと。
大きくその手を振りかぶり、くしゃくしゃに丸まったソレを、私目がけて投げつけてきた。
もともと質量など、あって無いようなものだ。
その塊は軽くこの肩に当たり、音もなく床に転がる。
けれどこの胸は、決して少なくはない衝撃に襲われ、息苦しくなった。
優しく、心穏やかな青年に成長した、成歩堂。
その彼が、あからさまな怒りをぶつけてきたのだ。
否、ぶつけざるを得ない状況に、私が追い詰めてしまったのだと、そう思い知るには充分だった。
唇を噛み締め、俯くことしかできない私はただ、その怒りを甘んじて受ける。
そのような私の態度は、だが彼にしてみれば、その怒りに油を注ぐものでしかなかっただろう。
勢いよく立ち上がり、二歩ほど後退りをした彼は、くるりと踵を返して玄関へと向かった。
何の言葉もかけられず、ただその去りゆく背中を見つめていた、私は。
ガチャンと閉められた冷たいドアに、唯一無二の存在を失ったことを、知った。
それから、どれほどの時間が経ったのだろうか。
私はふらりと立ち上がり、痺れたようにボンヤリとした脳内から、普段の動作だけを取り出し体に命令した。
役目を果たして丸くなったゴミを拾い、所定の箱に捨てていく。
それから、スーツを脱いでハンガーにかけ、風呂場に向かった。
熱い湯を頭から被れば、ふぅと息をひとつ吐くことができ、そうして……しばらくはそのまま、慟哭することを己に許した。
ばらばらと排水溝に落ちていく湯と一緒に、この胸を占める絶望も、悲哀も。
全て洗い流されればいいと、そのような拙い願いは、決して叶いはしないというのに。
湯にうたれたまま、数分の間は、身動ぎひとつできなかった。