青い鳥
□3.涙と喜劇と想定外
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裁判所での、名前を呼ぶことすらできなかった、あの日から。
数日が過ぎても、相変わらず僕の携帯は沈黙したままで、御剣からの着信を告げることはなかった。
その間、ぼんやりとした日々を過ごしてきた僕は、なんだか全ての感情が抜け落ちてしまったかのように、何を見ても何を聞いても、心が動かなかった。
麻痺したような感覚、とでも言えばいいのか。
真宵ちゃんが業を煮やしたように、「何があったのなるほど君!」とか聞いてきても、まるで薄い幕でもかかっているかのように、現実感がない。
なんでもないよ、という答えで目の前の女の子が納得しないことも、わかっているのに。
それでも、それ以上の答えが浮かばないんだから仕方がない。
うん、だって、やっぱり「何にもなかった」んだから。
御剣と直接会えれば、きっと何かしらのやり取りができて、多少はぎこちないことがあっても、きちんと話せると思ってた。
それが……想像通りにいかなかった、だけ。
結局は僕と御剣の間に会話も成立しなかったわけだから、そこには「何もなかった」という事実しかない。
ただ、僕の気分は急降下どころか底辺まで到達して、そのまま浮上できないでいることもまた、事実だった。
脳裏に焼き付いた、御剣と、その隣に連れだって歩く女性の姿。
確かに目が合ったのに、まるでこちらを無視して脇をすり抜けて行った、遠ざかるあの背中。
ああ、まだ怒ってるんだねそうだよね、という自己嫌悪と猛省に苛まれつつ、でもあんな大人げない態度もないじゃないか、せめて会釈ぐらいしてくれたってさぁ、とも思う。
まるで、再会したての頃みたいな、あんな態度。
傷つかないと言ったら、嘘になる。
ましてや、必死になって気を遣って頑張って、ようやく遠慮や戸惑いを取っ払った笑顔を見せてくれるようになったっていうのに。
ぐるぐる、ぐるぐると、まるで迷路みたいな思考の堂々巡りをしていた、その日の夕方。
台風のような男が、相変わらず人の迷惑も考えずに事務所にやって来た。
「成歩堂! ニュースだぜぇッ、大ニュース!!」
扉を壊す勢いで入ってきたその男は、挨拶もなしにいきなりそう言って、ニヤけた笑いを浮かべながらどっかりと許可なくソファに座る。
真宵ちゃんは既に慣れたもので、女の子に『だけ』はしっかり気を遣うヤツからの手土産を受け取ると、お茶を淹れに給湯室へ向かった。
「なんだよ矢張、ニュースって」
どうせロクでもないことなんだろうけど、きちんと聞かないといつまでもウルサイのがこの男の特徴だ。
やれやれと内心で溜息を吐きつつ、問いかけながら矢張の対面に座る。
すると、よくぞ聞いてくれたとばかりにズズイと前のめりになって、その唇が動いた。
「御剣のヤロウ、どうやら結婚するみてぇだぜ…!」
どうだ、すごい特ダネだろう、と言いたげな瞳はどこまでも無邪気なものだったけど。
「……は?」
言われた僕は、とてもじゃないけど、まともに反応できなかった。
「ええぇえええ?! ソレ本当ですか、矢張さん!!」
代わりに驚嘆の声をあげたのは、お茶を運んできた真宵ちゃんで。
その驚きように満足したらしい矢張は、ふふんと得意気に頷いた。
「おうよっ、この目とこの耳でバッチリ仕入れてきた情報だぜぇ!!」
呆然と言葉も出ない僕を置き去りに、話はどんどんと進んでいく。
曰く、「御剣がセミロングの黒髪美女と話しているのを聞いた」んだとか。
その『黒髪美女』に心当たりがないわけでもない僕としては、勘違いだろうという一言を突きつけることができなかった。
「いやー、ビックリしたぜぇ。検事局近くの公園でよ、なにやら美女と話してるヤロウが居るじゃねぇか。そりゃ盗み聞きに走るってもんだろ?!」
その言い分はどうなんだ、聞いたんじゃなくて盗み聞きかよ、とか。
ツッコミどころは満載だったんだけど、驚愕が勝ちすぎていてこの唇は動かなかった。
「あんまり近づきすぎても見つかっちまうしよ、断片的だったけど、確かに俺は聞いたぜ! あいつがすんげぇ真面目くさった顔して、結婚がどうの、愛してるだのなんだの、一緒に海外に行ってもらいたいだのなんだのってよぉ!!」
「ぅわぁあああっ、すごいすごい! 御剣検事からそんなこと言われたら、一も二もなく頷いちゃいますよねっ」
きゃぁきゃぁ言う真宵ちゃんの反応に、ますます矢張が胸を張る。
そんな光景を、ただ黙って見ているだけの僕なんて、気にも留めずに。
「それからよ、感極まったんだろうなぁ、彼女が泣き出しちまって。ぶははっ、そしたら御剣のやつ、すっげぇ慌ててさぁ、スーツのポケットから白いハンカチ出して渡してやんの。お前はどこのラブストーリー男優かって!」
ぶははははと大爆笑する矢張に反して、真宵ちゃんはコテンと小首を傾げた。
「はぁー、てことは御剣検事、海外にずっと行っちゃうってことなんですかね? 一緒に来てほしい、だなんて……ただの研修だったら、そんなこと言いませんよね」
何気ない疑問の声が、だけど僕にはとても重く、重く。
呼吸も止まりそうなほどの息苦しさを伴って、響いた。