もじ棚

□C
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・微裏





路地裏へ覚束ない足取りで身を滑らせ、積み上げられたビールケースの影に身を隠すように蹲る。そうして冷たい夜気の底でじっとしていても動悸は治まらず、肌はじっとりと汗ばんだままだった。油断大敵だと臨也は自嘲する。

最近取引ついでに関係を持ったその男は、下手ではないが特に上手くもなく、つまらないからコッチの方はお断りしようかなと考え始めていた。淡泊な性格だと侮っていた相手が、まさかあらかじめ口の中に薬を仕込こんでいたとは予想しておらず、気付いた時には少量飲みこんでしまっていた。
慌てて男を昏倒させて逃げてきたのだが、途中から薬が回り意識が霞がかってきたせいで、ここがどこなのかわからない。
下半身に熱が溜まっていく。飲まされた薬は催淫剤のようだった。さっさと処理してしまいたいが、こんな状態でホテルにチェックインできるとは思えず、かといって野外で抜くには抵抗があった。効果が治まったら新羅に診せに行こうと背を丸める。ロングコートを選んでよかった。

どれだけ時間が経ったか。身体の熱は全く引く気配がない。ほんの数分が今の臨也には何時間分にも感じられた。
ぞくり。刺すような冷気を感じて顔を上げる。悪いことは重なるもので、臨也は仕方なく今にも砕けそうな腰を上げた。

「イーザーヤーくーん。な〜にしてるのかな〜」
「……君もこんな時間に何だい?近所迷惑だから夜中に暴れるのはやめた方がいいよ」
「他人の迷惑どうこう言うなら池袋に来るんじゃねえ!むしろ生きてるんじゃねえ、このノミ蟲野郎!」

煙草と一緒に吐き捨てられた台詞に愕然とした。とにかくホテルから離れようと無我夢中で走ってきた。長年住処にしてきた池袋へ帰巣本能でも芽生えてしまったのかもしれない。
臨也は最近事務所を池袋から新宿へ移したばかりだった。その際、静雄にある事件の罪を擦りつけていったのだが期待を裏切って無実が証明されてしまい、以来、当然ながら二人の関係は壊滅的に悪化した。静雄は臨也の顔を見かけただけで問答無用で公共物その他を投擲するようになり、臨也は並みの人間ならとっくに事故死として片付けられているような悪辣な謀略を仕掛けるようになった。

「今日こそ殺す!ぶっ殺す!」
「あーあ全く、タイミングの悪い……」

剛速球で飛んできたビールケースを飛び退って避ける。立っているのもままならないこんな状態でやり合う気は全く無い。投げたナイフが静雄の目元を掠り、一瞬注意が反れた隙に背を向けて駆けだした。いつもならこのまま路地を何度か曲がれば逃げ切れるはずだった。
背後で風を切る鋭い音がし、避けようと足に力を入れた瞬間ぐらりと視界が揺れた。左の脹脛に激痛が走り転倒する。激しく動いたせいで薬が再び全身を巡ったのだ。
近づいてきた静雄につま先で仰向けに転がされ、首を掴まれる。避けようもない距離で拳が振り上げられた。
こんな所で死ぬのか。糞が、と口の中で呻いて臨也は反射的に目を瞑った。
ゴッ、と耳元で鈍い音がして恐る恐る目を開ける。拳は頬のすぐ横のコンクリートにめり込んでいた。

「……手前、どうかしたのか」
「どうって、何、君……今自分がしてることわかってないのかな?脳味噌の細胞が全部一つに結合したんじゃない。面白いから死ねよ」
「お前が死ね。足じゃねえよ。その顔どうした。風邪か」

どうしてこの暗がりで顔色がわかるのか。
視力まで人外の静雄にさらに殺意を募らせつつ、適当な返答をする。

「君と違って人並みの身体してるからね。そりゃ体調が悪い日もあるさ」
「ほぉ。体調悪くて怪我負わされて、それでなにおっ勃ててんだ変態」

静雄の視線が下がる。仰向けにされたせいでコートの下の身体のラインが浮き上がっていた。致命傷を負わされたような気分になり、臨也は額に手を当てた。

「……色々、大人の事情があるんだよ……もう今日はほっといてくれないかな。わかるでしょ、この辛さ」

怖々静雄の反応を窺う。苦いものを口の中で転がしているような顔をしていた。己の倫理観と臨也への殺意の間で揺れているのだろう。化物の癖に。罵りたい情動を噛み殺しながら、小さく左足を動かす。まだ痛むが骨は折れていないようだった。短くはない沈黙が続き、いい加減下半身が限界になってきた臨也が袖口からそろそろとナイフを取り出しかけた時、

「ぅあっ、ちょ……!」

二の腕を掴まれ、強制的に立ち上がらされた。相当量のアルコールを摂取していたのだろう、静雄からは酒と煙草のにおいがした。
呆気にとられ抵抗も忘れている間に連れ込まれたのは見覚えのあるホテルだった。あれから5年近く経っても、その手の客に愛されてしぶとく経営を続けていたようだ。
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