□喧嘩の作法 激闘編
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僕は確かに見た。
普段はお気楽脳天気、挙げ句の果てにはセーラー服コレクターこと大王イカの異称の由縁。その細い肩や狭い背中すらも、二倍くらいには大きく見せる焔を。

炎摩天、焔摩天、単純に、漢字の音を借りただけだと思ったら大間違い。
その火の欠片ですら現世を滅ぼす地獄の火焔を統べる者、冥界の盟主、僕ら鬼の主、そんでもって僕の恋人は、名実共にまごうことなき閻魔大王サマだ。

赤々と燃える目の色は、本気の怒りの一歩手前、血の色に酸化する寸前まで来ている。この迫力に、何人か同僚が引きつけを起こして倒れているけども、それがなんだって言うんだろう?

腹立ててんのは、こっちも同じだっつーの。

「こういう時、人間なら言う言葉があるよね?」

「ええ、そうですね。僕もちょうどそれを考えてました」

壮絶なまでの焔をバッグに、奴は普段と同じように、ニッと口角を上げた。

「表に出ろ!」

吠えた声は二人同時、僕らは役所の外に飛び出した。

後に残ったのは割れたコップと汚れた書類。





まるで、自然災害です。その破壊力たるや地震や嵐のようですらあります。
いつも横槍を入れてこられる陛下の親戚の方々も重々しく沈黙し、僕ら鬼族一同も気の弱い者は机の下に避難しているくらい。

やってこられる死者の方々への対応チームが殿下の元に組まれ、我々貧乏籤組は陛下と第一秘書官殿とのバトルの仲裁を担うことになりました。

怖いです。
ものすごい怖いのです。

怖いという言葉が震え上がって、そんな惨事の形容は出来ないと泣いて逃げそうなくらいに怖いのです。ああ、ワタクシメも逃げたい…。

そもそも、学歴もなしに若くして第一秘書官にまでのし上がった頭脳派の彼が、我々戦闘要員を遥かに凌ぐ戦いっぷりを見せているとはどういうことでしょう?

陛下とて、本当の本気ではないのでしょうが、阿鼻地獄の獄卒すら足元に及ばない剣幕でタモを振り回しておられます。

干上がってひび割れた地面が、更に焔に炙られて抉れて、ぼっこりクレーターを作ります。魂が弱い者であれば即刻消し飛ぶでしょう。

こんな状況で我々に何が出来ると仰有るのですか殿下!ていうか労災は下りるの?危険手当は出るの?やってられっかこんちきしょー。

そんなわけで、我々がやることは一つ。

「お収めください陛下ー!」

「これ以上の争い事は残業の元ですーっ!」

ひたすら叫ぶ。
全くもって効果はないのを知ってて叫ぶ。そうしないとなんにもやってないのがバレてしまう。

タモを振り回し、背負う火焔で威圧し威嚇し、周りを消し飛ばすような陛下と、片手の金棒でやりあう我らの同族。

火の粉が散り、たまに火花が煌めき、細いタモと太い金棒とが打ち合う。
金棒を持たない右手の爪は長く伸ばし、接近する度、陛下の衣服を切り裂いていきます。すんでのところで肌には触れませんが、心臓に悪いことこの上ない。

玉体に傷がつくのはこの際仕方がないとして、堂々と療養の口実など与えてご覧なさい。陛下はお布団と親交を深め、ワタクシメ一同は、日本の古事記よろしく天の岩戸を演じるハメになるのです。裸踊りは鬼男殿に任せますが。

「鬼男殿ーっお収めくださいー」

「あなたが大人になってくださいーっ」

「ていうか、ていうか、ち」

ち、が出た途端、ワタクシメは隣の同僚の口を封じました。
痴話喧嘩は役所でやるな!それは職員一同の思いでありますが、本音で済んだら建て前なんて言葉はねえんだよっ!つまりそいうことです。

中間管理職は大変なのです。

ぶわりと吹き上がる焔。煌めく爪。空を切るタモ。鈍い音を立てる金棒。

聞こえてくる同族と主の声が一般職員に聞こえないよう、結界を張るのが、我ら貧乏籤組のお役目とでも言いたいのですか殿下。
…労災が下りなかったらストライキ決定だ。

「あんたのせいでもんのすごいギャラリー背負ってンですけど?どうしてくれんだ大王イカっ僕明日から役所ない歩けねえよっ」

空を切る金棒。

「はっ。
 オレに喧嘩売るならそれくらいのリスクは考慮に入れとくべきじゃないの?
 大体デリカシーの欠片もない鬼男君に言われたくないんだけどっ」

横薙ぎのタモをいなすのは彼の爪。そのまま間合いを縮めて、頭突きをかます。
陛下が地面に転がって、帽が吹っ飛んだ。あーあ。
鬼男殿、ちょっと遠慮がなさすぎる。

「デリカシー?
 天下の変態野郎がどの面下げてそンなこと言うンでしょーね。
 あんたに欠けてンのは注意力と集中力ですよ、上司として致命的なんじゃないですかー?」

ビターンといい音がしたのは、もちろんタモの音でも爪の音でも金棒の音でもない。大王陛下渾身の平手打ち、といったって非力な陛下の力では、羅刹夜叉と並ぶワタクシメ共獄卒鬼は揺らぎもしない。

体は。
そう、あくまで体はだ。

ワタクシメ一同、同胞には、その音は休止符のように聞こえるのです。
大王陛下が言いたいことを吐き出し終わった合図なのです。

「鬼男君からも一発どうぞ」

「それでは遠慮なく」

パーンと高らかな音がして、鬼男殿の褐色の手のひらが陛下の白い頬に赤い掌紋を残した。

そうして此の度は、第七十二回目閻魔大王陛下バーサス大王付第一秘書鬼男殿の大喧嘩は幕を下ろしました。

原因?
そんなものは存じ上げません。ワタクシメ、一介の獄卒鬼には預かり知らぬこと。たとえ、陛下が触れ回りたいと思し召しても聞かぬが花というもの。
夫婦喧嘩は鬼も食わないのです。くわばらくわばら。





「あーあ、鬼男君ボロボロだ」

カットバンなんか貼ってみて、イタズラ小僧みたいになってしまった部下は、うっさいなあ仕事しろとぞんざいに言ってよこした。

発散されてた焔のせいで、結構派手に火傷をつくったくせに、『治療は仕事を片してから』ってやせ我慢。その意地の張り方は、可愛いと強情のギリギリライン。

「鬼男くーん、ほっとくとジリジリビリビリしてくるよ?
 そんなに手間も時間もかかんないんだし、さっさと治そうよ」

「結構です」

コトンとジュースの入ったグラスを置いて、彼は痛みに歪む顔をキリッと引き締める。

「気の利かなかった罰ですから」

「そんな言い方しないでよ…オレだって反省してんのに」

オレの体、勝手に治るから、そんな反省の仕方はやりたくっても出来ない。
痛いのは、いつもほんの刹那だけ。気の遠くなるような罰と痛みの時間を司るくせに、この体が受ける痛みは僅かすぎる。

ふーんっと、わざとらしい相づちを打つ。優秀な部下でも、拗ねたがりの可愛い恋人でもなくて、その口元から覗くのは、圧倒的な雄の顔。

「大王、あんた多分気づかないうちに色々溜まってんですよ」

「え?!
 否、そりゃあ一週間いたしてないけど、そんなことは」

しまった。
ニヤリと笑った彼の顔に鳩尾が冷たくなる。

「ほー、僕は夜のことだなんて一言も言ってないんですが。どうやら溜まっていらっしゃるようで」

「いやいやいや!君が紛らわしい言い方するから!」

「じゃあ、夜伽は要りませんね?」

「い、要らなくないです要りまくります」

はいはいよく言えました、とばかりに頭をポンとされた。
上手く乗せられた気がするのは確かだけれど、あれだけやりまくった後、ヤられまくるのは結構オツかもしれない。

墨を摺りながら、書類整理に余念のない彼に尋ねる。
じゃあ、そもそも溜まってたのはなあに?

パンパン、紙捌きの音。外で忙しなく行き交いする獄卒たちの足音よりも、その音がずっと大きく響く。

「溜まってンのはストレスに決まってるでしょうが。このところ、休みなんかあってないようなもんだったし」

「あーお互いベッドインしたらそのまんま一日中寝てたんだよね」

「だから、だから、ですね」

「うん」

お願いだから、書類にシワをつけるのは止めようね鬼男君。
君がちゃんと言葉を述べるまで、いつまでだって待っててあげるから。
そのほっぺたが赤くなっちゃったのに気づくのは、世界広し、冥界魔界は広大であってもオレだけだ。

グッと黙って、少し呼吸を整える。
躊躇いなしに上司に頭突きをかますし、いくら殴れと言ったからって鬼の力でぶっ飛ばしてくるような子だ。なのに、なのに。

だから、だからですねで固まっちゃってる君を見ると、やっぱりキュンときてしまう。
注いでもらった林檎ジュースよりも甘くって、今日割れてしまったコップに入っていたオレンジジュースよりも酸味が強い、そんな感じだ。

「僕が割ってしまったコップの代わり、探しにいきませんか?」

「一緒にお出かけしたいってこと?」

こっくりと頷いたから、見えないように笑ってやった。
ホント、あのコップお気に入りだったんだよ?
何の風の吹き回しか、鬼の霍乱か、不器用にラッピングして、君がくれた初めてのプレゼントだったから。

それが割れたってのに、「そんなもんほっときなさい、それより書類がっ」なんて言ったんだもん。

そりゃあ……集中力が切れてて、ちょっかい出して君をすっころばせたオレも悪いけど。

「ね、今度はお揃いの買おうよ」

「その辺は任せますから、サッサと仕事片付けましょう」

つれないふりが得意な恋人は、ポンと頭を撫でてから、明日は重役出勤でいいですよ、となんでもないように言った。

つまり、明日は揃って朝寝坊しましょうねってお誘いなんだよね。

こみ上げちゃう笑いは、林檎ジュースと一緒に飲み込んだ。
一層甘くなってたのは、言うまでもない事実。



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