甘
□狭間の音色
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茂る枝葉も美しき、木の下陰にヤマ王が、神を集めてうたげする、
神くらさしてわが父は、いにしえ人のあとを慕い、浮世を後に行きてけり。
これぞ名高きヤマ王が、安けく占むる高みくら、神の御座所と人はいう。
聞くも妙なりヤマの笛、響きめでたき歌声に、あわす調べのおもしろさ。
前を行く彼は長い衣の裾を引き歩く。
目の前に広がっている焔の海が緞帳のように開いて道を開けた。
彼は優雅ともいえるくらいにゆっくりと歩を進める。
この重なる断末魔からも隔離されているような、支配者然とした風格。
ったく、いつもこうならいいのに。
罪人に暴動を許したりも、僕に刺されたりしなくて済むだろうに。
わざとなのか、なんなのか。
あんたは結局マゾなのか。
地獄の業火の照り返しのような色の衣を纏った彼は袂から金色の笛を取り出して振り返った。
「今日は、ここにする」
珠玉の簾の向こうにある赤い目を閉じて、彼は笛に唇をあてる。
澄んだ音は天を目指して鳴り響く、その旋律の規範は主君の生まれた国のものらしい。神が造った笛、というわけではなく昔誰かにもらったものだそうだ。能書筆を選ばず。
細い指が滑らかに動き、曲を奏でる。
その旋律が周りの焔を和らげ、柔らかな風が吹く。
冠についた珠玉のせいで顔をはっきり見ることは出来ない。
けれども、きっとこの風みたいな表情を浮かべてるんだろう。
笛を吹く上司を見ることは少ない。まして、いつも見れるわけでもない。
閻魔王庁まで響くこの音色を楽しみにしている職員も多いけれど、毎回毎回仕事の手が止まっては、仕事が滞ってしまう。
見回りに徘徊している炎の獅子が大きな猫のように、すり寄っていき、彼のすぐ傍に身を横たえた。
主が今吹いている曲の名前は誰も知らない。どうやら自分で作ったらしい。
この笛は何も娯楽だってわけじゃない。この地獄の罪人の傷ついた体を癒すためにある。体を癒したところでどうせ、責め苦が終わるわけではないけれども。
寧ろ、一度癒されたことによって五感は復調し、また続けられる責め苦は痛みを増すだろう。
ここで笛を吹くのは慈悲や慈愛じゃない。
主君の笛は、天国の者には幸福と健康を、地獄の者には絶望と苦痛を与える。
ここに立っているのは、地蔵菩薩ではなく常に狭間に立つ閻魔大王なのだから。
高い旋律が空気に溶けるのを聴き届けてから、主君は笛から唇を離した。
まだ余韻に浸っているのか、一曲吹き終わって満足したのか、地獄の空を見上げてボンヤリしている。
本当はこのままそっとしておきたいのだけども、時間は常にギュウギュウだ。
「大王」
「ん?
ああ、すまない。
ぼんやりし」
漸く傍らに寝そべっていた獅子に気付いたらしい。
獅子の方は子猫よろしく眠っている。
「触ったら火傷しますよ」
獅子を覗き込む危なっかしい王の手を引く。
あの綺麗な音色を奏でた指に触れた。
何故だかはわからないけれども、懐かしいと思う。
ずっとずっと昔から、もしかしたら生まれる前から、僕はこの指を手を知っていたのかもしれない。
特に仰々しい衣を着ている時には強くそう思う。
自分が仕える相手というのをまざまざと見せつけられるからかもしれない。
王はくすりと笑った。
また聞こえる断末魔の中で艶やかな微笑を。背筋から脊髄までが凍っていくような感覚に襲われる。
「鬼男君、君は私のこの格好が好きだろ?」
右手を僕に預け、大王は遠い目をして、言葉を続ける。
「それとも私が『閻魔大王』らしくしてるのが好きなのか?」
「どうでしょうね」
僕の返答の裏側なんて見透かしているくせに、主は笑みを深くしてみせただけだった。 また、それこそみんなが望む『閻魔大王』らしく優雅に歩を進めていく彼を追う。
その裏側を、僕は知っているから。
こんな風に、残酷な正義を背負うことが『閻魔大王』らしいというのなら、僕は不安定に揺れているあなたの傍にいたいだけなのです。