悲しみの先にあるもの

□声にならなくても…
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「――ぁ…」

思い出したのだ。自分を助けてくれた彼は、1学年上の生徒を担当する物理教師の六道骸だと。
 顔立ちがいいせいか、女子生徒には異常に人気があり、親衛隊まで存在すると聞いたことがある。性格は、文字の前に超がつくほどの変人で、生徒に対しても何故か『骸様』と呼ばせているらしい。
それが逆にいいと言う、女子生徒の意見が男子生徒達は不思議だった。世の中はわからないことだらけである。

 「ありが、とう…ございます…」

かける言葉に一瞬悩んでしまったが、凪は素直にお礼を言った。誰かに礼を、しかも形式的ではなく素直な気持ちで、礼の言葉を自分の口から紡いだのは、本当に久しぶりだった。

 「礼を言われるほどの事をしたわけではありませんよ。怪我はないですか?」
「は、はい…大丈夫、です…」
骸がじっと自分を頭から爪の先まで見てくる。怪我がないか確認しているようだった。


「そうですか、よかった。君が無事でなによりです」
「そ、そんな…私なんて…」
「そうは言っていますが、これは相手側が完全に悪いのです。生憎逃げられてしまいましたがね。それに年頃の女の子に傷をつけるのは酷というものでしょう。特に君の場合は既に持ってしまっているのだから、尚更これ以上の傷は増やして欲しくはありません」
「…は、い…そう、ですよね…」

自分を本当に心配してくれているということが、彼の視線から感じ取れた。元々凪には育ってきた環境からか、他人の顔色をうかがう様な行動を無意識にしてしまっているらしく、他人と話す時は、大体そんな感じだった。
けれども、骸とは相手に気を遣うことなく、自然に話ができている気がするのだ。こんな風に他人と話したのは、凪にとってある意味初めてかもしれなかった。思わず恥かしくなった凪は骸から視線を逸らした。


「いい機会ですし、このまま一緒に学校まで行きましょうか。君を1人にしておくのは、危険極まりないですからね」
「…はい…なんだか…色々、ありがとう…ございます…」

すらりと慣れた様子で、骸は凪に手のひらを差し出す。その動作が意味することに、凪は一瞬と惑うものの、ゆっくりと自分の手を骸の手と重ねた。
 
そのまま、骸に学校までの道のりをリードされ、慣れたはずの通学路がやけに長く感じた。道中骸は自分に何度も飽きることなく、話しかけ続けてくれた。
凪は、骸から投げかけてくれた言葉や質問に、1つ1つ答えるだけで精一杯だったが、それでも、他人とこんなに長く、そして窮屈に感じることなく会話をするのは、凪にとって、この上なく心地いいものだった。
 長く感じた学校への道のりは、現実にはやはり短いもので、学校へ着くと同時に、凪の手から骸の体温が離れていった。

「思ったより、早かったですね…。とりあえず君に何事もなくてよかった」
「そ、そんな…きょっ、今日は…あ、ありがとうございました…」

凪はゆっくりと頭を下げた。
 
「先程も言いましたが、礼を言われる程の事をしたわけではありません。それに、今日という日はまだまだ始まったばかりですよ」
「あ…」
「では、また…」
軽く会釈すると、骸は校舎の中へと消えていった。その姿を凪は完全に見えなくなるまで、見つめていた。
 
「はぁ…」

短い時間だったけれど、あんな風に自分を気にかけてくれる人がいてくれたのは、凪にとって奇跡のような瞬間だった。
 教師の彼からしてみれば、自分は1人の生徒として接してくれているだけに過ぎないかもしれないが、それでも凪は嬉しいという気持ちを抑えられなかった。
 その後、担当学年が違う為、彼とは時々しか会わなかったが、それでもたまに会った時は、些細な世間話を聞かせあう。彼のお陰で日常が、自分の世界がこんなにも温かく感じられることを、凪は知った。
 初めて、自分を気にかけてくれた。初めて自分が憧れのような気持ちを持った人。それが骸であり、今の凪の1つの希望だった。

 



「…ふぅ…」
放課後、今日もまた凪はいつも通りの時間に下校し、そのまま、近くの図書館へと足を運ぼうとしていた。

凪は学校の授業が終わった後、決まって学校内の図書室か、近くの図書館へ行くのが日課になっていた。
 
家に帰っても、親はまず家にいる事はないし、仮に珍しくいたとしても、自分の存在は完全に空気と同じ。誰の温度も感じられない家は凪にとって、ただの箱同然。1人で窮屈な家の中を寝るまで過ごすよりは、人のいる空間で、静かに本を読みながら過ごしているほうが何十倍もマシだ。
 今日もまた、比較的近所の図書館へと向かおうとした凪は、あることを思い出し、歩を止めた。
 
(――そう言えば…)

学校からは少しばかり離れている場所に新しい図書館ができた、という広告が近所の掲示板に張り出されているのを思い出したのだ。
 
「…」

今から行けない、という距離ではない。どうしようと、凪は少し迷ったが、決意を固めて、新しくできたばかりの図書館へ向かうことを決意した。

 歩く事およそ20分。少しだけ長い道のりを越え、ようやく訪れた図書館は今まで通っていた近所の図書館よりもやや大きく、本の品揃えも、凪が思っていた以上に豊富で、何よりも珍しいのは、今時滅多に見かけないLDやDVDを一時的に貸し出し、その場で鑑賞することのできるスペースが設置されているのが印象的だった。

初めて来る図書館を凪はゆったりとしたペースで館内を見て回った。人もそこそこいる方で、小学生位の子供から、定年を迎えたらしい老人まで様々だった。


そんな中、凪は見て回るうち、無意識に、あるスペースに足を踏み入れていた。不思議な事に、その周辺には人1人いなかった。
そこは、海外向けの書籍や雑誌を扱う棚で、壁左右一面には様々な言語の本が入り乱れていた。ゆっくりと歩きながら数々の本を見て行く内に、凪はある本に目が留まると、思わず足を止めた。


凪の視線の先にある本。それは、表紙だけでなく、本の中まで真っ黒く染められた、異質な本だった。
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