ヒカルの碁

□〜夏子〜 
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「おはよう、彩!検温するわよ」

朝から元気が良いのは、彩の担当看護婦である田中夏子。
(彼女の前で年齢の話が禁句なのは、院内で有名である。)
彼女の元気な挨拶から遅れること数秒、低血圧の彩から挨拶が返ってくる。


「おはよう・・・ございます・・・」

ベッドの上でぼおっとしている彩に苦笑しながら、夏子は彩の体温を測る。
漸く2週間前に目覚めたとはいえ、まだまだ細心の注意を払わなくてはいけない。
何が拍子で体調を崩してもおかしくないのだ。

むしろこの2週間、何もなく過ぎたことがおかしいくらいだ。


6年以上眠り続けた身体は酷く弱り、筋肉はすでに使い物にならない。
ただ寝返りをうつのにさえ、人の手を借りなくてはいけないのが現状だった。
最低一人の看護婦が常時そばに付いている。

なかでも夏子は一番多く彩のそばに居てくれている。
目を覚まさなくなった前から、体の弱かった彩の担当をしていた彼女にとって彩は自分の娘も同然だ。
当の彩も夏子に一番心を許している。


「朝ご飯食べれる?」

優しく問われて、彩は漸くはっきりしてきた頭を縦に振る。

「はい、頂きます」

人形のように整った顔がふわりと笑みを形作り、周りの空気が一気に華やいだ。
彩を見慣れているはずの夏子も一瞬見惚れてしまう。

同姓でさえ見惚れてしまう美しい笑顔、何よりも心が本当に清純だからだと知っている夏子はいたたまれない。


こんなに綺麗で優しい子が両親を一度に失い、自らの脚で立つことは一生ない。
リハビリすれば何とかなるとはいえ、今は起き上がる事さえ出来ないのだ。
身内は年老いた祖母一人きりで不安の種は尽きない。

幼い頃から見知っているだけに、彩の未来が幸せで明るいものとなることを夏子はいるのかいないのか解らない神に切に祈っていた。
だからこそ気付いたのかもしれない。





彩が目覚めて1週間が経った頃だった。
彩と一番長くいたからなのか、夏子はある違和感のような物を感じ取っていた。

6年前の彩も今の彩も、大人しく優しい穏やかな性格は変わっていない。
しかし看護婦と語り合う時、食事の時、検診の時、笑っている時、ほんの時折微かだが何かが違っている。


どこがどう違うのか説明することも出来ない程の、僅かな差異。
強いて言うなら、心の芯が以前よりも強くしっかりしたものになった。

勿論それは良いことなのだが、何年も眠り続けた人間がいきなり精神成長を果たすとは思えない。
また、ろくに知り合いもいない彩がまるで誰かを想っている様子の時がある。

夏子はまさか、と思っていたのだが数日すると、それは確信へと変わっていく。




遠くを見る目で始終ぼぉっとし、何をしても気がそぞろ。
祖母や今は亡き両親を思い起こしている訳でもなさそうだ。

何かある、と確信をもって見抜いた夏子は彩に問い詰めた。





始めは何でも無いとしらを通していた彩ではあったが、幼い頃から見知っている母のような、姉のような夏子相手に嘘を続けられる筈もなく…。
僅か2日のうちに白状させられたのであった。



眠っている間に起こった信じられない夢物語。
千年も幽霊をやっていて、江戸時代には夏子も少しばかり聞きかじっている本因坊になっただとか。
現代では一人の少年を通して、囲碁の名人に勝ったとかいうこと。
最近誰かを想っていたのは、その少年であることまで。


   
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