焦風オリオ
□壱・憧風イコン
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仰向けに寝転がる。
高い梢に縁取られた青空に、白い雲が流れている。
とはいえ、自分と空の間は、本来なら不可視である筈の薄絹のような二重の結界によって遮られていた。
外側の結界は、ここ神都全体を覆い、外からの鬼の侵入を阻むもの。要するに城壁のような役割を持っている。
対して内側の結界は、神都のセントラルの中心に広がる鎮めの森を囲み、森に棲む異形の神、霊主を守るためのもの。
セントラルに住んでいた頃は、そう聞いていた。
だが実際には、霊主は神などではなく、ただ天蠱という虫に寄生されて、負気を喰らわねば生きていけない体質になってしまった生物でしかない。
結界も霊主を守るためのものではなく、閉じ込めるためのものだ。
この森に棲むようになってから、気付いた。
みんな、知っているつもりで知らないんだ。
眩い太陽に目を細め、伸ばした掌を透かす。
気持ち悪いくらいに穏やかな、人工的に作られた風が、指の隙間を抜けていく。
「こんにちは、お嬢さん」
不意に下から声が聞こえた。
身を起こすと、寝転がっていた岩の根元に、身形の良い老紳士が立ち、こちらを見上げている。
「間違っていたら申し訳ありませんが、神護宮に仕えている巫女様ですか」
巫女と呼ばれ、僅かに眉を顰めた。
袖無しの白い着物に赤い水干袴は、少し異体だが、確かに巫女と思われても仕方が無い。
巫女と思われるのは非常に不本意だったが、他に誤魔化しようも無いので適当に相槌を打つと、老紳士は安堵したように笑みを浮かべる。
「神護宮のお社まで案内して頂けませんか。参拝に来たのですが、迷ってしまいまして」
控え目な態度の老紳士に嫌とも言えず、渋々ながら「わかった」と答え、岩から飛び降りて老紳士の前に着地した。
乱れて鼻の頭に落ちてきた前髪を払い、溜息を吐く。
「見えるところまでで良いなら」
眉間の皺が深くなるのを感じ、老紳士から顔を背けて歩き出した。
自分には感情を隠す才能が欠片も無いということはよく分かっている。
不機嫌の原因は彼ではないのだから、下手に気にされたくない。
「ありがとうございます、お嬢さん」
後から掛けられた声に、ぴたりと足を止めた。
「銀、だよ」
聞こえない程の小さな声で自らの名を呟く。
代名詞で呼ばれるのは好きではなかった。
「どうか、しましたか」
「何でもない」
急に足を止めた銀を不思議に思ったのか、老紳士が困惑した声音で問うのにそう返し、銀は再び歩き出す。
暫く歩くと、赤い鳥居の列なる道に出た。
その先は森の木々に隠されているが、さらにその向こう、森から金色の瓦屋根が頭を覗かせているのが見える。
あれこそが、何百人という巫女と神官を抱える神教の重要拠点の一つ、神護宮である。
「やあ、見えた見えた。ここまで来ればもう私一人でも大丈夫です。本当にありがとうございました」
老紳士は山高帽を持ち上げ、額に浮き上がった汗を拭って笑った。
濁りの無い笑顔を向けられ、銀は「別に」と答えながら視線を逸らす。
礼を言われるのには慣れていない。
「いや、それにしても、会えないものですねえ」
残念そうに森の方を振り返りながら呟かれた言葉に、銀は訝しげに眉を顰める。
「霊主様ですよ。運が良ければ会えると聞いていましたが」
「運が悪ければの間違いじゃねえの」
つい口をついて出た言葉に老紳士が目を瞠るのを後目に、「さよなら」と呟きながら森へと駆け戻ろうとしたその時。
「いたぞ、霊主だ。撃て、撃てぇーっ」
唐突に響いた声と銃声。
そして、こちらを向いたままの老紳士の胸に赤い染みが広がる。
「じいさん」
虚ろに焦点を失った老紳士がうつ伏せに倒れると、その後方の茂みの向こうから、ライフルを持った青い軍服姿の男たちが駆けてくるのが見えた。
じいさん、やっぱり運悪いよ。
倒れ伏した老紳士を一瞥して唇を噛み締めると、銀は社の方へ向かって走り出す。
巫術の一、超足。
気を足の裏に溜めて弾けさせることにより、超常的な速度を可能とする代わりに、本来ならば、足にかなりの負担を掛ける上、気の消費も早く、常用し難い技であるが、銀にそのデメリットは無い。
霊主となった時点で銀の気は失われてしまったが、代わりに他者の気を使うことが出来るようになっていた。
自身の気が無いため、僧のように対象に触れて自分の気を同調させる必要も無く、ありとあらゆる生命の気を借り受けることができるのである。
そのことは誰にも言っていない。
「なんで霊主が巫術を使えるんだ!」
「くそ、追え。逃がすな」
男たちが追ってくる気配を感じながら、銀は混乱する頭を整理する。
あの軍服は、政府の正規軍のものだ。
霊主の姿を知っているということは、上層部から情報が流出したのだろう。
いや、意図的に情報を流したのか。
内部分裂。
その可能性が脳裏に浮かぶと同時に、銀は歯噛みした。
くだらないことに巻き込んでくれる。
赤い鳥居が順々に後方へ流れていくのを横目に、緩やかな石段を一段飛ばしで駆け上がる。
ようやくその果てが見えてきたと思うと同時に、上から降ってきた何かが、風のような速さで銀の横をすり抜けていった。
銃声が途絶え、男達の悲鳴が上がる。
足を止めて振り返った銀の目に映ったのは、石段に散った男達の屍を見下ろして立つ、長身の男。
その手には、赤く染まった巨大な偃月刀が握られている。
男が振り返り、白く塗られた顔と、縁に朱を差した無感情な瞳がこちらに向けられた。
神教神官府に所属する神官達の長、神官長である。
「霊主様」
上から降ってきた冷たい声に、神官長から目を逸らして顔を上げると、石段の切れ目に人影が見えた。
逆光に目を細めるとそれが、小柄な巫女であることが分かる。
「外出はお控え下さるよう、再三申し上げた筈です。お忘れですか」
一片の親しみも感じられない事務的な口調と眼差しに、銀は巫女を見返し、おずおずと口を開いた。
「その、じいさんは」
僅かに眉を寄せた巫女は不意に目を虚ろにさせて押し黙る。
遠視をしているのだろう。
「一般人と接触したのですか」
銀に焦点を戻した巫女の責めるような口調に、銀は無言で俯いた。
「処理は我々にお任せを。それより大婆様がお呼びです」
処理。
その言葉に唇を噛みしめた銀の耳に、遠くで銃声と悲鳴が響き渡っているのが聞こえる。
男達の残党と神官達と交戦しているらしい。
「さあ、お早く」
促されるままに、銀は重い足取りで上段に足をかけた。