黄色の本
□Mr. Butcher
2ページ/4ページ
ラーベハイム第二高等学校寮。
一室に付き二人で、共有スペースと私室それぞれに鍵を掛けられる形式の、当時の最高級の待遇は、市内に八つある高等学校の内、ここだけが軍属で、優秀な生徒ばかり集められていたことに起因する。だが、優秀な生徒、というラベル付けは逆に厳しく管理する、ということにもつながっている。毎晩八時半には消灯され、一室一室を教師が見回りに来るし、朝は六時半に運動場で体操前に点呼される。食事は三食ともに食堂で、定められたものを、制服はちゃんと第一釦まではめ、襟元のリボンは蝶々結びで逆さになってはいけない、髪は肩よりも上、など、細々とした決まりがあり、破ると罰則が用意されていた。
とはいえ、僕にとってそれを守ることは苦では無かったし、同室のイヴァンも孤児院でそうしたことには慣れていたらしく、時折破りはしても、うまくやり過ごしていた。
その時も、一日の為すべきことを終え、後は消灯を待つばかり、という状況で、僕は共有スペースにあるソファに座り、本を読んでいた。
「『肉屋』?」
読んでいた本から顔を上げ、イヴァンに問い返す。
「そう、『肉屋』。やっぱり知らなかったか。お前、こういう話には疎いもんな」
シャワーの後でタオルを濡れた頭に被せたまま、イヴァンは得意気に繰り返し、笑った。
「いま町ではもっぱらの噂みたいだぜ。犯行時間は深夜帯。女子供は夜に出歩くなってさ。見に行かないか」
歩きながらテーブルの方に来て、置きっ放しになっていた魔法瓶を手に取り、こちらを振り返る。
「見に行かないかって。駄目に決まっているだろう。見回りが終わったら寮の鍵は閉められてしまうし、朝の点呼が済むまで開けられない。もし見つかって放校になんてなったら、おじさん困るんじゃないのか」
魔法瓶の中から取り出したアイスキャンデーを一齧りし、イヴァンは唇を舐める。
「別に困りはしないさ。あの親父だからな。それに、手は考えてある」
目を眇めて含み笑いをするイヴァンを見て、僕は理解した。イヴァンは思いつきを話しているのではない。決定事項を提示し、共犯者となるか傍観者となるかの選択を求めているのだ。ここで止められなければ、イヴァンは確実に町に出る。
「駄目だ。そんな危険な真似、許せる筈がないだろう」
「ハンス」
懇願するような眼差しに心が揺れるが、イヴァンの為を思えばこそ、だ。
「もし一歩でもそこの扉の外に出たら、寮監に連絡するからな」
「お堅いことで」
途端にむくれ顔になったイヴァンは、舌打ちをしながら白い煙を吐き出す魔法瓶の蓋を閉める。
「今度は日曜の昼間に誘ってくれよ」
安堵の笑みを浮かべると、イヴァンも笑顔になった。
「ああ、また今度な。とっておきの娼館に連れて行ってやるよ。政府のお偉いさん御用達だぜ」
「イヴァン」
説教を始める前に、イヴァンはさっさと私室に戻り、内側から鍵を掛けてしまった。
「まったく」
僕はため息を吐くと、本を閉じ、ポケットから手帳を取り出して開く。この中には、僕の全てが詰まっている。誰にも、イヴァンにも見せられない。ちょうど確認をしたいところだったから、イヴァンがいなくなってくれて助かった。
確認を終え、シャワーを浴びて出てくると、ちょうど消灯時間になる頃だった。
見回りに来た教師に促され、イヴァンの様子を見に、玄関からリビングに戻る。
「イヴァン、もう寝たの」
ノックをしたが返事が無いのでドアノブを捻ると、ちゃんと鍵が掛かっているようで、扉は開かない。リビングの鍵はお互いに持っているが、私室の鍵は内側から指でつまんで回す形のサムターン式で、鍵は寮監しか持っていない。どうやら、町に出るのを諦めて眠ってくれたようである。寝たようだということを伝え、教師を見送り、玄関の扉を閉める。
一安心したところで、僕も寝ることにした。
「おやすみ、イヴァン」
イヴァンの部屋の扉越しに声を掛け、僕も自分の部屋に戻る。
その日が、イヴァンを見た最後の日となった。
翌朝、体操の時間を過ぎてもイヴァンは姿を現さず、寮監がイヴァンの部屋を開けるとそこはもぬけの殻で、寝た形跡も無かった。戻ってきたら厳罰に処する、と教師が豪語していたのは朝までのこと。昼を過ぎても戻らないイヴァンに、学校は警察に捜索を依頼した。
だが、町の路地裏で発見されたのは、ラーベハイム第二高等学校のリボンと「肉屋」に切り刻まれた無数の肉塊だけ。心臓が凍る思いで待っていた司法解剖の結果分かったのは、その肉塊はイヴァンではなく、イヴァンの養父であるルドルフ=アベルを含む、政府の高官たちであるということだった。
結局、イヴァンが如何して、何所に消えたのかは、ずっと、誰にも分からないままだった。今日までは。