黒色の本

□幸福な私たち
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 公園の片隅。燦々と降り注ぐ陽光を透かす木陰のベンチに、一人の浮浪者が腰かけている。浮浪者は爪の割れた両手を組み合わせて身を屈め、掠れた声で歌を口ずさんでいた。今にも途切れて消えそうな小声の歌は、しかし音程も外れておらず、なかなかに上手い。浮浪者の足元では、どこか愛嬌のある動きで鳩が地面をつついて回り、無骨なフォルムのトランジスタラジオが雑音混じりの濁った声を流している。
「すみません」
 どこか閉鎖的で停滞した情景に声を投じたのは、白髪混じりの長い髪を項で一括りにし、スケッチブックを小脇に抱えた女。
「私、そこの大学で教えている者です。貴方の絵を描かせて頂けませんか」
 穏やかな微笑を浮かべた女を、浮浪者は暫くの間、表情を変えぬままに見つめていたが、やがて染みだらけの薄汚れた手を女に差し向けた。
 女は戸惑うこと無くその手の上に二千円を乗せると、小さな折り畳み椅子を広げ、浮浪者を斜めに見上げる位置に腰を下ろす。
 鉛筆を握った女の針金のような手が、白いスケッチブックの上にシャープな線を走らせていく。再開した男の歌と鉛筆が紙に線を刻む音が響く中、黒い線が浮浪者のいる情景を描き出し、紙がめくられ、また別の角度から同じ情景が描かれる。
――沢山のお便りを頂いております。まずは埼玉県越谷市にお住まいのラジオネームBBさん。
 静かな音楽をBGMに、落ち着いたパーソナリティーの声が聞こえた。
――「今はお亡くなりになった登山家の宇喜多さんが、天山山脈を制覇した時のインタビューで、『頂上に着いた時、まず何をしましたか』という問いに対し、宇喜多さんが口ずさんだと答えた、サダノリさんの『探していた幸福』は、幼かった私にも、不思議と強い印象を残しました」
 ふと気付くと、浮浪者と女はお互いに動きを止めていた。不意に訪れた静寂の中、女は微笑を浮かべて浮浪者に眼差しを向ける。
――「その後、サダノリさんの歌を探してみましたが、彼がソロで出したのはこの一曲だけで、バンドもこれを出した直後に解散してしまっていました」
「勝手な想像ですけどね」
 浮浪者は顔を上げ、その硝子玉のような瞳で女を見返した。
――「今でもこの『探していた幸福』は、私の一番好きな曲なので、是非聞かせてください」
「彼はきっと、幸福だったと思いますよ」
 どこか眩しそうに目を細め、女は視線を上げる。
――ラジオネームBBさん、ありがとうございました。それでは、サダノリの『探していた幸福』、どうぞお楽しみください。
 折り重なる梢の黒い影が揺らめき、峻烈な白い陽光を斑に染めていた。

 欲しかったものはここにはない
 鏡の向こうで笑ってる
 握った手のひら開いたら
 ちっぽけな「自分」が震えてた

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