黒色の本
□月に唄う 忘却の彼方
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「ナカナ、ネズミが出たって」
古びた木の戸を蹴破る勢いで、チヒロが酒場に飛び込んで来た。チヒロは既に戦意十分らしく、その背には破壊砲が斜めに掛けられている。それも仕方の無いことだ。チヒロは両親と妹を、家ごとばっくりとネズミに喰われてしまったのだから。
「そう」
目を爛々と輝かせているチヒロに微笑い掛ける。
ネズミがこの世界に現れてから。
ネズミがこの世界を喰い始めてから。
世界は半分に分かれた。
この世界を捨てて逃げ出した者と、この世界に残ってネズミと戦うことを決意した者。
だけど、僕はそのどちらでもない。
あの日、ネズミが初めてこの世界に現れた日。
チヒロの家族が、世界の三分の一が死んだ日。
僕は右足を失った。
家族は僕を置いて逃げていった。
逃げることも戦うこともできない僕は、瓦礫に埋もれて、風雨に曝され、死人と共に朽ちかけていた。
そこで拾ってくれたのが、チヒロだ。
チヒロはごつい破壊砲を背に、エアモーターに乗って、太陽の喰われた空の上から、まるで流星のように滑り降りてきた。
ネズミを探していたのだ。
だけど、チヒロが見つけたのは巨大強大なネズミではなく、あまりにもちっぽけで脆弱な僕だった。
チヒロは僕の前まで来てゴーグルを外すと、笑って手を差し伸べてくれた。
そしていま、僕は何もできないまま生きている。
チヒロに生かされている。
「今日こそあいつを仕留めるからさ、ナカナも祈っててくれよな」
僕は「うん」と答え、無邪気を装って笑み続ける。何を、とは聞かない。聞けない。聞いてしまったら、僕はまた嘘を吐かなければならなくなる。
――うん、祈ってる。君の幸運と勝利を。
チヒロは笑顔で親指を立てると、来た時と同様、風のような勢いで外へ飛び出していった。僕も義足を引きずりながら酒場の戸を押し開ける。木戸は軋みながら、空虚な無人の酒場を閉鎖した。
外に出ると、チヒロのエアモーターが唸りを上げて宙に浮き上がるところであった。
「チヒロ」
僕が声を上げると、チヒロが上から僕を見下ろして、にっかりと笑う。エンジンの音に掻き消され、僕の声は聞こえていないはずなのに。そしてまた、チヒロも何事か口を動かす。
無理だよ、チヒロ。僕は君ほど他人の声も、心も、うまく受け止めることができない。
だが、僕は笑顔で頷いた。チヒロも笑顔で飛び立っていく。
僕には飛ぶことのできない、高い高い空へと。