黒色の本

□虹色の館
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 私は唖然として目の前に聳えるものを見上げた。
 それは、まことに立派な洋館であった。壁、扉、窓――何から何まで、虹色に煌く青い石材から造られている。群青色の美しく磨かれた壁は、ちょうど陽光に煌く海面のように、ちょっとした角度の具合で光彩が変わった。その動きに見入っていると、唐突に扉の開く気配がした。
 半ば開いた扉の陰から顔を覗かせたのもまた、奇妙に美しい人であった。雪のように白い肌はともかくも、髪、瞳、爪が悉く、桜の雫のような淡く曇った色をしている。
「何か御用でしょうか」
 淡く煌く真珠色の着物を身に纏った彼女は、壁に触れようと手を伸ばしかけていた私の姿を認め、優しげな微笑を湛えつつ小首を傾げる。その浮世離れした美しさに、私は驚愕のあまり言葉を失い、不躾にも彼女を見つめたまま立ち尽くした。
「お疲れのようですね。良かったら、休んでいきますか」
 私が黙してしまったのをどう受け止めたのか、彼女はこちらです、と言うなり私の手を引いて館の内へと導き入れた。
 中に入るとまた壮観であった。玄関からホールまでの通路は、左右天井をぐるりと水槽が囲んでおり、まるで水族館のようである。
「お気になさらないでください」
 水槽の中、色とりどりの水草や魚に紛れて、人のこちらを見つめているのに気づいて足を止めると、女性が半ば苦笑気味に言った。
「彼らはあの中でしか生きられない、哀れな者達なのです」
 そうだろうか。
 既に話題は終わったと言うように先を歩く女性の背から、再び水槽の中の人々へと目を移す。美しい光彩を持った水中の人々は、確かに、皆一様に暗く虚ろな目をしてこちらを見つめている。だが、その視線には私達に対する憐憫と嘲笑が混じっているように感じられた。
 ホールは二階の天井まで突き抜けた造りになっている。正面の天鵞絨張りの階段は二階へ昇る途中で二又に分かれており、反対側、つまり玄関からの入り口側の壁でつながっている。階段の足の下には中庭があるらしく、開け放たれた扉からは柔らかな陽の日差しが差し込んでいた。その光を受けて群青の床の七彩に煌くのに見惚れつつ、女性についてホールを縦断し、中庭へと赴く。
 中庭はなお優美であった。外周に立ち並ぶ木々は揃って乳白色であり、やはり美しい光彩を放っている。下草は水色、煌きは無いが、半透明の水色が風に揺られてそよぐ様は、自分が海中にいるのではと錯覚してしまいそうなほどに幻想的である。中央に置かれた一本足のテーブルは群青、その周りに四つ並んでいる椅子も同色であり、緑の光彩が強いところを見ると、同じ石から切り取られたようである。
 惚けたまま辺りを見回しているうちに、いつの間にかその椅子の一つに座らせられていた。
「喉が渇いたでしょう。お水を持ってきますね」
 どうも、などと適当な相槌を打って女性がホールの方へ戻っていくのを見送る。それにしても、ここは本当に不思議なところである。落ち行く夕陽のような透き通った色の小鳥が二羽、戯れ合いながら乳白色の木の枝に止まるのを眺めながら、まるで極楽のようだと思い、吹き出した。我ながらあまりに陳腐且つ暢気な発想である。
「   」
 不意に名を呼ばれ驚いて我に返ると、目の前に一人の青年がいて私を見下ろしていた。もちろん、彼も普通の人ではない。黒い地色に燃える炎のような遊色が煌く髪と瞳を持っている。今日この日まで、彼のような稀有な容貌の人とは会ったことがあるはずも無いのだが、どこか懐かしさを感じる顔立ちであった。
「どうして私の名前を知っているのですか」
 ほぼ無意識に当然の疑問を口にすると、青年は口籠り、痛みを堪えるような面持ちで俯く。何か悪いことを言ってしまったかと、慌てて口を開きかけた段になってようやく青年は顔を上げると、険しい目で私を見た。
「いいか、ここで出されたものを口にしてはいけない。隙を見て、すぐに出て行け」
 何故と問う間も無く背を向けて青年の行ってしまった方角を、口を開きかけたそのままの形で見つめていると、背後から足音が近づいてきた。桜色の女性である。
「さあ、どうぞ。召し上がれ」
 微笑と共に、テーブルの上に黄緑の光彩を放つ透けたグラスが置かれた。そこになみなみと注がれた水もまた、揺れながら七色に煌いている。先程の青年の言葉は気に掛かったが、出されたものを飲まないわけにもいくまい。
「いただきます」
 私が飲むのを待つように見守る女性の視線の中、私は喉を鳴らして水を呷った。グラスを置き、口を拭うと同時に、眠気を感じて瞼を擦る。
「二階に空き部屋がございます。そこでお休み下さい」
 言われるままに、二階の一室へと入り、女性が何事か説明しているのもおぼろげにしか聞かぬまま、寝台に横になる。その瞬間に意識が遠のき、私は眠りに落ちた。
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