黒色の本

□生まれる記憶
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 記憶の一番奥底に眠っていた情景を掘り起こし、隆夫は低く笑った。
 一介の会社員にすぎなかった父が今の彼を見たら何と言うだろうか。しかし、それを知る術はもう無い。彼の両親は既に亡くなって久しい。ただ、これだけは言える。彼は両親の思惑を超えて大きくなった。
小学生の時点で頭角を現し始めた彼は、中高一貫の有名進学校に入学し、T大に現役合格、首席で卒業した後、現在の企業系列の会社に入社した。そして今や、一流企業の代表取締役である。
今は亡き会長の一人娘である妻の麗子は先日他界した。しかし、息子を残してくれたから問題は無い。息子は今年で十八になった。大学を卒業するまであと四年はかかるが、隆夫が生きているうちに何とか、いま隆夫がいる地位まで引き上げられるはずだ。何せ、隆夫の息子だけあって優秀な子供である。なにかと父親に反抗的なのが玉に瑕だが、大学を卒業するまでには落ち着くだろう。
隆夫がそんなことを考えていると、唐突に扉がノックされた。
「社長、ご子息がお見えになっています」
 秘書の沈着な声が扉越しに響く。
「達夫が?」
 珍しいことだ。達夫は滅多に隆夫と顔を合わせようとはしない。それが、電話でも書簡でもなく、面と向かい合って話そうというのだ。よほどの事情があるのかもしれない。
「入れ」
 制服のまま入ってきた達夫は、いやに硬い顔をしていた。閉まった扉を背に、沈鬱な面持ちで俯いている。
「用件は何だ」
 達夫は口を開かない。壁に掛けられた時計の、淡々と時を刻む音だけが部屋の中に充満していく。
「応接室に移ろうか」
 この部屋は広すぎて立ち入った話をするには向かない。テーブルを挟んで膝を突き合わせられるほどの広さの応接室ならば喉のつかえも取れようという親心だったが、達夫はその言葉を無視して隆夫の前に進み出ると、真っすぐに隆夫の目を見据えた。
「十八年」
 唐突に切り出し、眼前に座す父親を冷たい目で見下ろす。
「これが何の時間だか分かるか」
 隆夫はその傲岸不遜な態度に怒るどころかむしろ感心し、笑みを浮かべた。
 まだまだこどもと侮っていたが、どうだ、この支配者に相応しい威厳は。それでこそ、我が後継と言えよう。
 その気配を察したのか、達夫は自嘲するように笑った。
「俺がお前の後継になるなどとは考えるなよ。俺はもう、そういうことには一切興味が無い」
 まるで心の中を見透かされたかのようなその言葉に、隆夫は内心驚いたが、それもまた達夫の才知の為せる業と考え、改めて感嘆する。
「いいや。私には分かる。お前は私の仕事を引き継ぎ、さらに発展させ、この国を裏側から牛耳るようになる。お前にはそれだけの器と才気があるのだ」
 達夫の唇の端が皮肉げに吊り上がる。
「くだらない」
 隆夫の長年の夢と野望を一言の下に切り捨てると、達夫は隆夫の机に乗っているものを一瞥し、鼻で笑った。
 濃褐色の滑らかな机の上には仕事の書類と印鑑、万年筆の他に、写真立てが一つあった。入れられている写真は、達夫が十二歳の頃のものである。隆夫の企業が別企業と提携、実質的には吸収合併した時の記念パーティーの際に撮られたものだ。写真には夫婦と、その間に挟まれるようして立っている達夫の姿が映っていた。右側で一張羅のスーツを着込んだ隆夫は満面の笑みを浮かべている。達夫の肩に手を置いている麗子もまた微笑んでいたが、どことなく寂しそうに見えた。
 写真の中の母親の顔を見て達夫の瞳が僅かに翳る。だが、それは一瞬で消えてしまい、隆夫に目を戻した達夫は先程までと同じ、傲慢なほどに威圧的な顔をしていた。
「俺はこの十八年間、ずっと我慢し続けてきたんだ。お前の馬鹿さ加減にな」
「な……お前、父親に向かって何ということを」
 激昂した隆夫が椅子を蹴って立ち上がるのを見て、達夫は嘲るように声を上げて笑った。
「お前がそれを言うのか。実の父親に対し、手を上げたお前が」
 隆夫の表情が一瞬にして凍りついた。
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