黒色の本

□archetype epitaph
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「起きろ、この寝坊助」
 威勢の良い声と共に頭上に落ちてきた衝撃。
 薄く瞼を開けると、蛍光灯の無機質な白光と、窓からの情趣に富んだ赤光が視界に飛び込んできた。重なり合う光の下、日焼けした木机が整然とした振りをして無秩序に立ち並んでいる。家にも増して生活感に溢れる空間、学校の教室である。
 周囲には呆れ笑いを浮かべた数人の友人。他には誰の姿も無い。
「いつまで寝てるんだよ、もう放課後だぞ」
 明るい笑い声に包まれ、寝癖のついた頭を掻きながら身を起こす。
「掃除当番の奴ら、困ってたぞ。お前が起きないから」
 窓の外を見ると、ミニチュアみたいな連中がグラウンドをちょこまかと動き回っている。もう部活の時間だ。
「変な夢を見た」
 呟くと、皆がまた笑って僕の肩を叩く。
「またかよ。本当にお前は好きだな。で、どんな夢なんだ」
「日常が、段々と非日常にすり替わっていく夢。いや、段々とじゃないな。いきなり、だ。でもそれはほんの小さな差異だから、すぐには気づけない。だから、気づいた時にはもうどうしようもなくなっていて、愕然とするしかない」
 微かに開いていた窓から隙間風が入り込んできて、カーテンをクラゲのように揺らめかせる。
「それまで確固として存在していた世界が、揺らぎ無いものであったはずなのに、嘘に塗り替えられていく。『現実』のメッキが剥がれて『嘘』が露になりゆく様をまざまざと見せ付けられる。恐怖だ。それは恐怖に他ならない」
 話している言葉は妙に滑らかで淀みない。まるで自分の言葉ではないかのように思えて気味が悪い。そもそも、僕はこんなに饒舌な人間だったろうか。
「そこに立つ僕は、君は、私達は、呆然と立ち尽くすしかない。自分の存在さえも確信できないまま、ただただ見つめ続けるしかない」
 その時、僕はようやく気づいた。
 笑顔で僕を見つめる友人達の口が、声に合わせて代わる代わる動いている。
「その時に君が」教卓にもたれかかっている奴が「何を思い」その前でキャッチボールをしている片割れが「何を選択するかは」その相手が「僕は」教室の真ん中で「俺は」机に座っている奴らが「私は」僕の前の席に座っている奴が「知らない」僕の隣に立っている奴が「それは君が」動かない笑顔のまま「選択す」唇だけを「ることであ」蝶のようにひらひらと「ってわ」動かして「れらが」僕に向かって「関知すべ」次第に声を揃えて「きじ」壊れたレコードのように「しょうではな」話し続けて「い」
 唐突な爆発音。
 暗転した空。窓硝子が割れ、その破片を孕んだ熱風が勢い良く飛び込んでくる。
 一瞬にして蛍光灯が連続して割れる、鋭く澄んだ音が耳を切り裂く。
 笑顔を浮かべたままの友人達は、身を守ることもせず、人形のように吹き飛ばされ、透明な硝子の破片に切り刻まれ、壁に、掲示板に、打ち付けられた。
「やめろ」
 窓の下、一人だけ身を屈め、難を逃れた僕は叫んだ。
 熱風に煽られ、笑顔のまま教室の片隅に磔にされた友人達めがけて、真っ二つに割れた机や椅子の足が降り注ぐ。
「やめてくれ」
 腹や胸にそれらが突き刺さり、毒々しいほどに鮮烈な赤い血が群生する曼珠沙華のように咲き乱れてもなお、彼らは笑うことをやめない。
「頼むから」
 軋むような音を立て剥がれた黒板が紙屑のようにひしゃげながら教室の空間を水平に飛び、彼らを圧し潰した。
 風が凪ぎ、世界は静寂に包まれる。
 暗幕を垂らしたように空は黒く塗り潰され、電光も途絶えたはずなのに、何故か僕にはその色彩が、その色彩だけが、いやに鮮明に目に焼きついた。
 黒板の縁から、壁を這ってとろとろと床へと向かう赤い色。
 僕は口を押さえたが、耐えられず、嘔吐した。
 何度も何度も、胃の内容物が無くなり黄色い液体に変わり、それさえ出なくなっても吐き続けた。
 酸味と苦味が、口だけでなく全身を、脳をも冒す。
 こんなこと、現実にあるわけがない。これは、そう、きっと……。
「夢だ、と思っているのかい」
 ありえるはずの無い生存者の声に、僕は朦朧とした頭をもたげ、霞んだ視界に、どうにかしてその相手の姿を映し出そうとした。
 そして、見つけた。
 そいつはちょうど、割れた窓の、鋸のようにそばだった硝子の上に停まっていた。
「否定はしない。現実は君の認識で決まる」
 鳩である。何処にでもいるような、薄汚い灰色の羽を持ったそいつは、死んだように光を失った黒い瞳をしていた。
「そう、全ては君の認識次第だ。この現状も、私も、君自身の存在でさえも。君が認識したことによって現実となった。逆を言えば、君が存在を否定すれば私は存在しなくなる。つまり、これは君の望んだ結果だ。爆発により日常世界の象徴たる友人達が絶命させ、錯乱し、思考を整理する相手として言語能力を有する鳩という異常を出現させたのも全て、き……」
「やめろ」
 思わず叫ぶと、鳩は小首を傾げ「くるっぽう」と普通の鳩のような声で一鳴きし、羽ばたく。
「あ、待てよ」
 たとえそれが人でなくても、こちらを惑わすようなことばかり言ってくるような奴でもいい。こんな場所で、ひとりになるのは嫌だった。
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