黒色の本

□puppet moon
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ある朝、起きると、ネズミが小さく丸まっていた。

目を固く瞑ったまま開かず、つついてみてもいつものようにピンクの鼻面をこすりつけてこない。

僕は肩掛け鞄の中にネズミを入れると、梯子を降りて階下へ急いだ。

「母さん、ネズミが動かないの。なおして」

母さんはソファの上で横になったまま、胡乱な目で僕を見た。

ひとつ欠伸をすると、ポケットから何枚かの銅貨を取り出して、僕の方に投げる。

「エーミール、酒買ってきて」

賑やかな音を立てて銅貨が汚い床の上で跳ねる。

そのうちの一つがころころと転がってきて、僕の靴に当たって倒れた。

僕は無言で母さんを見た。

母さんには僕の話を聞く気が無いのだろうか。

「母さん、ネズミが……」

再度同じ台詞を言いかけた僕に向かって、母さんは履いていた靴を投げ付ける。

ぺらぺらの靴は、僕の頬に当たって落ちた。

信じられない思いで母さんを見つめた僕に、母さんの濁った、だけど刺々しい視線が突き刺さる。

「酒買ってきなさい!」

僕は言葉を呑み込むとしゃがみこみ、急いで銅貨を拾い集めると、逃げるようにしてアパートを飛び出した。

そうだ、お医者さんになおしてもらおう。

お金が足りるか分からないけど、それしかない気がする。

サンレックス通りにあるお医者さんのところへ向かって歩いていたら、路地裏から空き瓶がひとつ、ごろんごろんと転がってきた。

顔を上げると、僕の年上の友達、マックスがブリキのゴミバケツの上に座って笑って手を振っていた。

「おはよう、マックス」
「よお、エーミール。どこへ行くんだ?」
「ネズミが動かないから、お医者さんになおしてもらうの」
「そりゃだめだ。チャールズじいさんは鼠なんて診てくれないよ」

僕は目を瞬かせてマックスを見た。

お医者さんは僕たちを助けてくれる人だ。

僕の大事なネズミを診てくれないわけないのに。

「どうして?」
「どうしてもさ。おれもこのまえ車に轢かれた猫を連れてったけどだめだったよ。そういうのは獣医に行けってさ」
「じゅうい?」
「ああ。おれもよく知らないけど、隣町にはあるらしいぜ」
「ありがとう」
「おう、気をつけろよ。隣町の連中はタチが悪いから、ぼーっとしてると金を盗られるぞ」
「うん、じゃあまたね」

マックスと別れた僕は、隣町を目指してどんどん歩いていく。

見慣れた小道が、段々馴染みの無い道へと変わっていった。

道行く人や、建物や、塀の上の猫までもが、よそ者である僕を歓迎していない気がする。

いつもなら僕が不安になった時は、ポケットの中のネズミが小さな温かい体や、指先をくすぐる髭で僕を慰めてくれるのに、今は……。

今は、そう。いつも助けられているぶん、僕がネズミを助けなきゃいけないんだ。

硬く縮こまってしまった臆病な心を叱咤して、僕は歩みを進める。

隣町との境界上にある橋が見えてきた。

五、六人の人が欄干にもたれかかったり座ったりして喋っている。

隣町の奴らだ。僕は緊張に体を強ばらせる。

その内の一人、リンゴを齧っている赤い髪の人は、ビルという、こっちの町のこどもたちのアタマだ。

「よお、エーミール。どこへ行くんだ?」
「ネズミが動かないから、ジュウイさんになおしてもらうの」

僕は警戒しながら言った。

「そりゃだめだ。この町の獣医はゴウツクバリだからな。お前なんかの小遣いじゃ全然足りねえよ」
「どうして?」
「どうしてもさ。世の中、金が無きゃだめなんだ」
「じゃあ、どうすればいいの」
「列車で三つ先行ったところにある駅前の獣医だったらタダ同然で診てくれるって噂だぜ」

そう言ってビルは僕の肩をぽんと叩いた。マックスはああ言ったけど、ビルもなかなか親切だ。

「ありがとう」

笑顔で礼を言った僕に、何故かビルの背後にいる人たちは声を上げて笑う。

「気にすんな。礼ならちゃんともらったから」

当惑しながらも、僕は駅へと向かった。

だが、切符を買う段になって彼らが笑っていた理由が分かった。

ポケットに入っていたはずの銅貨が無い。

驚愕よりも先に、諦観がよぎった。

仕方ない。これが僕の生きる場所なんだから。

僕は列車に乗ることを諦め、改札口で事務的に客の持つ切符を切っている車掌の姿に一度だけ目を向けると、線路沿いにとぼとぼと歩き始めた。

不意に鼻の頭を、透明な雫が打った。

曇天の空を見上げると、白い霧雨が次第に数を増しながら降り注いできた。

通り雨だといいのだけど。

僕はできるだけ濡れないように、物陰の下を選んで、さらに歩き続けた。



その町に着いた頃には、僕の足は耐え難い痛みに苛まれていた。

ぶかぶかの靴は歩く度に湿った音を立てる。

それがまめがつぶれたせいなのか、それとも靴に穴が開いていて水が浸入してきているせいなのかは分からない。あるいはその両方なのかもしれない。



雨は上がったが、まだ通りに人の姿は少ない。

湿気を含んだ空気の街は、どことなく黒ずんで見えた。



「獣医」の看板はすぐに見つかった。

取り外され、壁に立て掛けられていた。看板が掲げられていたと思われる、四角い日焼け跡の残る煉瓦の建物は、窓が割られ、ゴミが投げ込まれ、廃墟と化していた。

……理由は分からないが、やめてしまったらしい。

「大丈夫。別の場所を探すから。ちゃんとなおしてあげるから」

不安になりながら呟き、ポケットの中に手を突っ込む。

だが、触れるはずの柔らかな感触が見つからない。

心臓が凍りついた。

「どうして」

反対側のポケットを探る。が、やはり何も無い。

元々収納箇所の少ない衣服の、ありとあらゆる部分を探しても見つからない。

ネズミを、失くしてしまった。

落としてしまったのだろうか。

僕は焦燥と恐怖に駆られながら元来た道を駆け戻り始めた。

「よお、坊主。どうかしたのか」

蹌踉と歩いていた僕に、道端で寝ていた浮浪者が声を掛けてきた。

「ネズミを探してるの」
「鼠ならそこら中にいるだろうが。なんなら俺が一匹捕まえてやろうか」
「それじゃだめだよ。探してるのは僕のネズミだから」
「なんだ。ペットに逃げられたってか。そりゃだめだな。もう見つからねえよ」
「そんなことない!」

思わずかっとなって大声を出してしまった。浮浪者の当惑したような顔を見て、恥ずかしくなり、俯く。

「動かなくなっちゃってたから、ひとりで逃げるなんてことはできないはずなんだ」
「なんだ。死んだ鼠を探してたのか」
「しんだ……?」

しぬ。

それは決して遠くの存在ではなかった。どこにでもあって、大人たちはその度に泣いたり眉を顰めたりする。なんだか嫌な印象を受けていたけど、あまりよくは理解していなかった。

僕の未熟な認識を見て取ったのか、浮浪者は続けて言った。

「もう二度と動かないってことさ」

もう、にどと、うごかない……。

ああ、そっか。そうなんだ。

何故かすとんと納得がいって、同時にすごく悲しい気分になった。涙は出ない。冬の風みたいに心がすごく冷たくて乾いているだけ。

「おじさん、ありがとう」

僕は浮浪者に礼を言うと、とぼとぼと歩き出した。

だけど、僕のネズミは違うはずだ。

だって、僕のネズミは僕のネズミなんだから。

だから、探し出してなおしてもらえばきっとまた、動く。

僕はまた、ネズミを探して歩き始めた。

だけど、どんなに頑張って探しても、僕のネズミの姿は何処にも無い。

僕は次第に疲弊してきていた。

不意に、誰かの罵声が耳に入る。

「黙れ、この愚者共めが。怪物はいる! この世界に確かにいる実在物なんだ」

顔を上げると、路上に座り込んだ男が二人の警察官に対して、唾を飛ばしながら力説していた。その足元にはスケッチブックが落ちている。スケッチブックは泥で濁った水溜りの中に沈み込んでいた。

「怪物は何処にだっている。世の中に遍在し、静かに待ち構えているんだ。堕ちてくる奴がいないか眼を光らせながら、俺たちを見ている。怪物の存在を忘れてはいけない。忘れてしまっては、俺たちは喰われてしまうんだ。俺は負けた! 奴に負けたんだ。だからもう終わりなのさ」

顔が赤く、目が濁っている。日ごろ見慣れているからすぐに分かった。酔っているのだ。

酔っ払いの男は尚も何事か喚き散らしながら、警察官に引きずられるようにしてその場を去っていった。

パレットや筆から滲み出した絵の具が、水溜りに奇妙な幾何学模様を描きながら、マーブル状に混ざり合い、絡み合いつつ沈んでいく。

重い足を引きずりながら、また、歩き出す。

“怪物はいるんだ”

何故かあの酔っ払いの言葉が耳について離れない。

“負けたんだ。だからもう終わりなのさ”

「僕も、もう」

僕は足を止め、灰色の空を仰いだ。

陰気な空に、不可視の怪物がいて、僕にその先を言うように促す。

「負けたんだ」



僕は、ネズミを諦めた。
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