黒色の本
□BIRTH
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空を覆う真っ黒な闇の中に、置き忘れられたように皓々と照る月がある。
それでも今日は、いつもよりは早い。苦笑と共にドアノブを捻る。
「ただいま」
玄関の戸を閉め、靴を脱ぐ。学校の鞄を床に置こうとしたとき、リビングの奥から聞こえてくる話し声に気づいた。
「母さん?」
客だろうか。男性の声が聞こえてくる。僕は怪訝に思い、ついつい眉根を寄せてしまう。
父さんと離婚してから、母さんは全てに対して無気力になってしまっていた。料理も洗濯も全て僕がこなし、話しかけても返事さえくれないこともしばしばある。近所や仕事場でもそんな感じだと聞いているので、母さんが客を上がらせることなんて今まで無かった。
それに、どうも様子がおかしい。普通の会話ではないような……。
玄関からリビングに顔を覗かせた瞬間に視界に入ってきた光景に、僕の頭の中は真っ白になった。
僕の位置から見えたのは、乱れてベッドから落ちかけた布団とそこから垣間見える白い肢体だけであったが、それだけでもう何が起こっているかは十分に理解できた。
朧な明かりを点した街灯が寂しげに点滅を繰り返している。
家の扉が開き、男が出てきた。サンダルを履いて玄関先まで見送りに来た母さんを振り返り、二言三言、笑いながら言葉を交わすと母さんの腰に手を回し、引き寄せる。
長いこと接吻を交わした後、二人はようやく離れる。母さんは娘のように頬を紅潮させ、背を向け手を振る男に手を振り返すと、ようやく扉を閉めた。
男が家の前の角を曲がり、ひとり歩き出す。僕はその背を見つめ、息を潜めてついていく。
「こんばんは」
声を掛けると、男が振り返った。暗がりで顔は良く見えないが訝しんでいるようである。
「歩きながらでもいいんで、少し話しませんか」
「君は?」
男はあからさまに警戒した声を出した。名乗るべきか名乗らないべきか。逡巡した後、僕は顔を上げて闇の中の男をじっと見据える。
「オキ」
どう反応するだろう。挑むような心地で吐き出した。
「オキ カズミです」
息を呑む気配がした。
「そうか、君が……」
唐突に両肩を掴まれ、僕は困惑するよりむしろ恐怖した。怖気が背筋を駆け抜ける。縋るように、パーカーのポケットに潜ませた折り畳みナイフを握り締める。
「ヨウコさんから僕のことは?」
“ヨウコさん”
信じたくはなかったけれど、やはりそういう関係なのか。僕は俯いてかぶりを振る。
「さきほど、家であなたが母さんを抱いているのを見て、それで……」
そうか、と呟いた男の息は酒臭かった。
「それはすまなかった。じゃあ、改めて自己紹介しよう。私は君の新しい父親だ」
もうそこまで話が進んでいたのか。母さんはなぜ僕に何も言ってくれなかったのだろう。父さんのことは……。
……父さんのことは、もうどうでもよくなってしまったのだろうか。
男が僕の頭を掴み、上を向けさせた。嫌悪感を抑え込み、僕は努めて無表情に男を睨む。
「それにしても君はヨウコさんに似ているね。瓜二つだよ」
笑いながら顔を近づけてくる男の目にはどこか嘲るような光が宿っていた。
「まるで父親の血なんて……」
頭の奥の方で、何かが音を立てて弾けた。
「いらない」
僕は吐き捨て、ポケットから手を出し様に、折り畳みナイフを抜き払った。
驚愕に目を見開いた男の喉元が横一文字に裂けていき、噴出した真紅の鮮血が宙に舞い上がる。
「お前なんか、いらない」
仰向けに倒れた男を威圧するように見下ろし、吐き捨てる。
口と喉から血の泡を出す男の動きが痙攣に近くなってくると、頬についた血を拭い、僕はその場を立ち去った。