黒色の本
□幻幽戯画
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人気の無い墓地に、その男は現れた。
その場所と、凍てつくような冬の空気に似合わない、満開の向日葵の花束を竹箒と共に肩に担ぎ、もう片方のだらりと下ろした手には、無造作に水の入った桶と線香が握られている。
どこかいい加減な目つきで辺りを見回しながらふらふらと歩いていた男は、ある墓の前で踏鞴をふみ、行き過ぎかけていた足を止める。
「あー、ここだここだ」
満面の笑みを浮かべた男は、どっこいしょ、などと気怠げな声を上げて、どこかの不良のように墓の前にしゃがみ込む。
「ったく、お前こんな分かりにくい所にいるから、迷っちゃったじゃんよ」
墓に向かって文句を垂れた男は、とりあえず荷物を脇に置き、コートのポケットから取り出した煙草に火をつけ、一服した。
冬空にたゆたう紫煙を眺めつつ息を吐くと、男は墓へと目を戻し、にいっと笑う。
「とりあえずは久し振り、かな」
墓参りの後など縁起が悪いと言われそうだと思ったが、些細な問題だと思い直し、そもそもの帰郷の理由である、入院している父の見舞いのため、針瀬川総合病院へと向かう。
案の定、散々文句を言われ、それに対し文句を言い返し喧嘩になりかけたところで、看護師に追い出されるようにして病院を出た。時計を見れば、もう昼を回っている。
どうにも、ここに来る度に似たようなことばかりしている気がする。もう二度と来るものか、と決意しても時が経てばまた、自発的にしろそうでないにしろ、来てしまうのだから、不思議なものだ。
もしかしたら、呼ばれているのかもしれない。
移動販売車で買ったホットドッグを公園のベンチでぱくつきながら、漠然とそんなことを思った。
何とは無しに林をぶらついていると、林道の片隅に、忘れ去られたかのように小さな祠が建っているのが目についた。
「オカゲサマ、か」
男は僅かに眉根を寄せ、その祠を見やる。
御影様信仰は、この地域一帯に根付いた信仰である。とはいえ、男はその詳細を知らない。ただ、建物の間に、道の端に、橋の袂に、ぽつぽつとその祠が点在しているのを知るだけだ。
その内容については、祖母から聞いた所が全てである。悪い子は御影様にたべられてしまうだとか、良い子の願い事を叶えてくれるだとか、幼い頃に散々聞かされた。恐らく、悪ガキだった自分のしつけのために、相当歪曲された話なのだろうが。特に「良い子」「悪い子」という辺りは。
幼い頃の自分は信じないなどと言いながら、けっこう真剣に願ったこともある。
小学校の校長を替えて欲しい。小遣いが欲しい。ギムキョーイクを無くして欲しい。
しょうもないことが殆どだったけれど、一つだけ叶った事がある。いや、本当に叶っていたのかどうか、今となっては微妙で、確かめようも無いけれど。
だけど、結局は無意味な願いとなってしまった。
遠き日々に思いを馳せていると、向こうから小学生くらいの子供が駆けてきて、ちょうど男が見つめていた祠の前で足を止める。大人しそうな風貌のその子供は、泣いているのか、細かく肩を震わせている。この辺の子供ではないのだろうか。その背にはこんもりと膨らんだデイパックが揺れている。その姿を見るともなしに眺めながら男は、そう言えばこの林道の先には懐かしの我が母校があったっけか、などと吞気なことを考えていた。
とはいえ、だいぶ前に廃校になった筈だ。もしかしたら、肝試しでもしていたのかもしれない。この年頃の子供は、そういうことが好きだから。
「お、感心感心」
嗚咽に紛れて「おカゲさま」という言葉が聞こえ、男は口元に笑みを浮かべる。自分の代でさえあまり知られていなかったので、他所の子供の口から出るとは思っていなかったが、意外とまだ残っているようだ。
「そうちゃんなんかキライだ。こんなとこ、もういたくない」
友達とケンカでもしたのだろうか。
噎び声と一体になって聞き取り辛い子供の、大人からしたら馬鹿にしてしまいがちなその
必死な願いに、男は息を吐いて背を向ける。
「どこか、連れてって」
ここであの子供の前に出ていくのも憚られる。何となく、今は一人で泣きたい気分なのではないかと、そう思った。元来た道を戻ろうと、木の根ででこぼこした暗い道へと足を踏み出しつつ、そういやあいつは何か願ったのだろうか、などと唐突に思った。
もう一度会えたなら、聞けるのに。
木漏れ日に眩んだ視界を、黒い靄が包んでいく。