昼下がりのドロシー
□第一話
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たとえば、そう。
「自分」が蛇や蝉の抜け殻のように、綺麗さっぱり脱ぎ捨ててしまえるものだったなら。
或いは、去年買った外れクジの番号のように一片の記憶も残さず忘れ去ってしまえるものだったなら。
それが出来ないと知った時、別の方法を実行することにした。すなわち……
死ぬことにした。
誰もいないビルの屋上。
フェンスを乗り越え、微妙に傾斜のついた埃臭いコンクリートの縁から一歩踏み出した時の浮遊感。
反転した空。
徐々に湧き起こってくる恐怖感を誤魔化し、この世で最後となるであろう表情を、嘲るような笑みを浮かべた。
これで、終わるのだ。
静かに目を閉じた刹那、背中に衝撃を感じた。
「ぅげほッ?」
肺を圧迫され、思わず咳き込む。と同時に、赤いビロードの敷かれた床へと転がり落ちる。
「魔王様!」
切迫した叫びに周囲を見渡すと、バーチャルでは見慣れた、現実には見慣れない景色が視界に広がっていた。高い天井。明かりの無い薄暗い広間。たとえば、初期のRPGのラスダンにありがちな。タイトルをつけるなら「魔城」だろうか。それを肯定するかのように、鱗や羽などの生えた人々が部屋を埋め尽くすようにして整然と並んでいる。
そんな中俺は、すぐ脇にあるものを見て仰け反った。
それは、肌の浅黒い、耳の尖った男だった。自らの手にした剣で胸を貫いている。その目は現状を信じられないとでもいうかのように見開かれていた。しかも、そいつの座っているのは金銀宝石に彩られた「いかにも」という感じの玉座なわけで。これはもしや、いや、もしかしなくても…。
「魔王様が殺された!」
「そいつだ! そいつを殺せ!」
叫ばれた言葉に、俺は一瞬気が遠くなるのを感じた。
だって、何よコレ。
俺はただ、飛び降り自殺しただけで、ていうかそのはずなのに、この状況は何デスか。本当にもう、誰でもいいから助けてくれ!
俺は飛んできた火の玉に涙目になりながら、手元にある唯一の武器らしいモノ、「魔王」の血に濡れた気持ち悪い剣を引き抜き、威嚇するように構えた。
「ぅうわぁああああ!」
そのまま剣を振り下ろし、勢い余って床に当たりそうになった瞬間、俺はあまりの手応えの無さに思考が停止した。
床さえも紙のように切り裂いた剣筋は、空間までも裂いていた。その裂けた狭間に見えた、こことも元の世界とも全く別の、のどかな農村の風景に、俺は嫌な想像をした。その想像に違わず、背中からもんどり返った俺は狭間へと落ちていく。俺は救いを求めるように手を伸ばしたが、閉じていく狭間の向こうでは驚愕か怒りか顔を青ざめさせた異形の人々が為す術も無くこちらを見下ろしているばかりだった。
ついさっきと同様、果てなき空へと放り出された俺は、地面を見つめたまま歯を食いしばる。死ぬだろうか。死ぬだろうな。この高さから落ちたんじゃ。いいじゃないか、それで。元々そのつもりだったんだから。ここがどこだろうが、関係無い。これで終わるんだ。風になぶられ目尻から涙がさらわれていく。
ああ、もうじきだ。青々とした畑と村の境となる柵と、緑豊かな森が次第に迫ってくる。と、森から一人の少年が飛び出してきた。年の頃は十五、六。赤みの強い茶色、鼈甲色の髪と瞳。真っ黒な外套の下には灰色のローブ。手には古木の枝のようにくねったつえを握っている。彼は何かに追われるようにしきりに背後を振り返りながら集落のある方目指して一心に駆けていた。
何に追われているかは間も無く分かった。
少年に続いて、森から象ほどもあるくすんだ茶色の塊が飛び出してきた。巨大なトカゲだ。まるで上からプレスされたように扁平な体は鈍重そうだが、左右に体を振り回すような走り方で次第に少年との距離を詰めていく。
それは別にどうでもいい。問題は……。
「なんで俺の真下に来るんだよっ」
異世界で死ぬことは許せても、間抜け面のトカゲの背で潰れるのは嫌だ。
俺の絶叫は尾を引いて響き渡った。