黄色の本
□Mr. Butcher
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シュヴァルツラント北部のグラオザーム湖。
元来厳格な雰囲気を持った森に青々とした若葉が芽吹き、未だ春の日差しの中で柔らかにまどろんでいるように見える。この季節は、この一帯が最も映える季節であると僕は思うのだが、いかんせん、この時期に訪れる者はそういない。
恐らくはこの時期、多くの企業が決算で大わらわであることに関係しているのだろう。
普段は疎ましいばかりの軍属という立場も、この美しい景観をほとんど独り占めに出来るという利点を考えれば、少しは溜飲が下がるというものだ。
湖畔のベンチに腰掛け、森を映す壮大なスクリーンと化した湖面を眺めながら、外套のポケットから表紙は褪せ、紙は黄ばんでぼろぼろになった手帳を取り出す。
まだ僕がラーベハイム第二高等学校に通っていた頃のものだ。この頃は僕の人生の中で、恐らく最も重要な出来事が数多く起こったため、この手帳を片時も手放したことはない。
表紙の裏には、まだ幼かった僕と、僕の生涯唯一にして最大の親友であるイヴァンの写った写真を挟んである。僕が持つイヴァンの写真は、それ一枚きりだ。それどころか、僕が知る限り、イヴァンの写真はそれしかない。イヴァンは僕の在学中に行方不明になってしまったし、それからしばらくしてラーベハイムは空襲に遭い、学校も寮も、それから市役所も燃えてしまったからだ。イヴァンは元々孤児院出身で、養父となっていたアベル氏は、イヴァン蒸発とほぼ同時期に、通り魔に遭って亡くなっている。アベル氏もまた孤児院出身であったため身寄りは無く、家具や電子機器などはともかく、写真や手記などの私物は処分されてしまっていた。
表紙をめくると、薄汚れた中表紙だけが目に入った。宿でも写真を眺めていたので、もしかしたら忘れてきてしまったのかもしれない。よくよく思い返すと、棚の上に立て掛けて、ベッドから眺めていた記憶がある。
あの写真は他人には無価値だろうが、僕にとっては何よりも大切なものだ。
僕は立ち上がり、早足で湖畔の一角にある宿を目指した。
宿の二階に辿り着くと、僕はもどかしく鍵を開け、冷たいドアノブを掴み、開け放った。
新築の部屋のように空虚でよそよそしい部屋を捜し回るも、棚にも机にも、ベッドにも、あのたった一枚の大切な写真は見つからない。
或いは、掃除が入って何処かに行ってしまったのだろうか。
僕は慌てて一階に戻り、昼食の仕度をしていた主人を捕まえて問い質す。
「写真ですか。いや、知りませんよ。掃除だって、うちはチェックイン前とチェックアウト後にしかやらないんでね。それに、鍵は掛かっていたんでしょう。マスターキーはずっと私が持っていましたし、盗まれたなんてことはないでしょう。言っちゃ悪いですが、お客さんの勘違いなんじゃないですかね」
警察に連絡するかと尋ねてきた主人に断り、考える。
勘違いということはありえない。また、窓の鍵も閉まっていたので、小動物が紛れ込んでどうにかしてしまったということも無い。物理的に存在したものが勝手に消失するということはありえないのだから、誰かが盗ったに違いないのだ。
「今日、他にここを訪れた人はいますか。何か知らないか聞いてみたいので」
「ああ、それならお客さんの隣の部屋にエーデンさんという方がお泊りになっていますよ。後は、そうですね。庭師のブルーノがずっと庭先でハーブ園の手入れをしているはずです。麓町に住んでいる甥のカールもさっき食材を運んで来てくれたけど、もう帰っちまったかな。連絡してみますか」
ずっと庭にいたブルーノには不可能。カールも、いつも玄関前から地下の食糧庫を往復するだけだから、除外していいだろう。とすると、エーデンという客が怪しいか。
「いえ、結構です。ありがとうございました」
主人にチップを渡して二階に戻ろうとすると、エーデンは湖畔に行ったと教えてくれた。どうやら、ちょうど僕と入れ違いになってしまったらしい。
湖岸につながれた小舟の上に、その男は寝転がっていた。
個性の無い茶色の外套に、鼠色の山高帽。顔は広げられたままの新聞紙に覆われていて、見えない。
「すみません」
声を掛けると、男の胸の上で組み合わされていた手が僅かに震えた。
「エーデンさんでしょうか」
再度声を掛けると、男は顔の上の新聞を払いながら身を起こした。
「そうだが、何か用かい」
露になった、夏の海のフェアギツスマインニヒトの花に似た、深い藍色の瞳が僕を捉える。夜闇を塗り込めたような黒髪に映えて、よく似合っている。無精髭とぼさぼさの髪をどうにかすれば、立派な紳士になるだろう。
「隣の部屋に宿泊している、ウィレム=アイヒマンです。少しお伺いしたいことがあるのですが」
エーデンは僕を値踏みするように目を細めて見つめた後、ふっと息を洩らして笑った。
「いいぜ。乗りな」
意味が分からずに立ち尽くしていると、エーデンが立ち上がり、手を差し伸べてくる。
「せっかくだから、この雄大な自然を楽しみながら話そうか。急ぎじゃないんだろう」
確かに、他に当てもないことだし、急いでいるわけではない。僕は躊躇った末、小舟に乗ることに決めた。握ったエーデンの手は、思ったよりも硬く、節くれ立っていた。
鏡面のように美しい湖面に波紋を残しながら、エーデンはゆっくりと櫂を漕ぐ。森を吹き抜けてきた風が緩やかに髪や頬を撫でていく。爽やかな気候だ。
「で、聞きたいことっていうのは」
エーデンは何の前触れも無く、唐突に尋ねてきた。その視線は伏せられ、どこか哀愁を感じさせる。
「写真のことです」
「ふうん、写真ねえ」
他人事のように櫂を漕ぎ続けるエーデンの手を押さえると、エーデンは無表情にこちらを見返してきた。
「十年前、ラーベハイムで僕と僕の親友を写した、この世に二つとない、大事な写真です」
へえ、と気の無い様子で応えたエーデンの瞳を見据える。
「盗ったのは貴方ですね、エーデンさん」
「知らないね」
「嘘をついても無駄です。瞳孔が拡がっていましたよ。動揺している証拠です」
「軍人ってのは本当、嫌味な奴らだよ」
畳み掛けるように言うと、エーデンはため息を吐いて櫂から手を離した。先ほど枕にしていた鞄の中から魔法瓶を取り出し、蓋を開ける。奇妙に白い煙が立ち上る魔法瓶から身を離してエーデンの手元を見つめていると、エーデンは中から白色のアイスキャンデーを二本出し、一本をこちらに差し出してきた。
「食べな。ミルク味だ」
意味が分からずに冷気を発するアイスキャンデーを凝視していると、エーデンは笑って自分の分のアイスキャンデーを齧る。
「毒なんざ入っちゃねえさ」
促されるままにアイスキャンデーを口に含むと、懐かしい甘みが口の中に溶けて広がった。
「その煙は」
「ああ、これはな」
エーデンが魔法瓶をひっくり返すと、中から白い塊が二、三個転がり出し、上げ板に落ちた。ひんやりとした冷気を発するそれは、僕にも覚えがある。ドライアイスだ。
「魔法瓶に入れとくと長持ちすんだよ。だから、いつもアイスキャンデーと一緒に持ち歩いてんだ。ホームシックに掛かった時に、いつでも食べられるように」
「何ですか、それ」
「他に持ち歩けるような思い出の品なんてのは残ってなかったんでね。ちょっとした心の慰みさ」
独り言のように呟き、アイスキャンデーを齧ると、エーデンは視線を湖の方へと向けた。
「十年前、ラーベハイムでは連続殺人事件が起こっていたな」
唐突に吐き出された言葉に、僕の手元からアイスキャンデーが零れ落ちた。
「被害者は皆、関節ごとにばらされ、見るも無惨な様だったという。肉の解体作業にも似た犯行手口から犯人は『肉屋』と呼ばれ、恐れられていた」
アイスキャンデーの棒を煙草のように咥えたまま、エーデンはため息を吐く。
「久しぶりだな、ハンス」
眇められた目がこちらに向けられ、その目つきが記憶の中の彼と重なった。
「イヴァン、なのか」
ああ、と応え、棒を魔法瓶の中に戻した彼の姿は、あの頃よりも痩せていた。だが、あの頃よりも引き締まっていた。瞳の色だけは変わらない。きっと、永遠に色褪せない、藍色。髪は美しい金色だったはずだが、染めているのだろうか。
「本当に」
「ああ、イヴァンだ。今はヨアヒム=エーデンと名乗っているけどな」
僕とは正反対に、淡々と答えるイヴァンに、次第に怒りが湧き上がってくる。
「どうして」
生まれてこの方出したことの無いような大声を上げ、イヴァンの襟に掴み掛かった。靴の裏側で、アイスキャンデーの潰れる感触がする。
「どうして、黙っていなくなったんだ」
僕がどれほど心配したのか、僕がどれほど悲しんだのか、イヴァンにはきっと分からない。僕以外の誰にも、分からない。
「仕方ないさ」
イヴァンは僕から目を逸らしながら呟く。
「『肉屋』を見たんだ」
僕の心臓がびくりと震えた。