黄色の本

□Silvery Siltation
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「ほら、勇助。お前の弟の義助だぞ」

オヤジが俺の肩を叩き、前へ出るよう促した。オフクロの胸に抱かれているそれは、全体的に黒い俺やオフクロとは似ても似つかず、朽葉色の髪と瞳、真っ白な肌を持っている。そう、それはオヤジとオフクロの子供ではなく、俺の弟でもなかった。昨晩遅くにやってきた見知らぬ女性が置いていったものである。だが、オヤジもオフクロもそれを俺の「弟」と呼んで憚らず、俺がそれに触れるのを待っている。

俺は仕方無く、おっかなびっくりしながらそれへと手を伸ばす。

「うわっ」

それは、唐突に俺の指を掴んだ。

「お、義助。兄ちゃんが分かるのか」

オヤジの声を背後に聞きながら、冗談じゃない、と思った。無邪気に微笑みかけてくるそれの笑顔を見て、オヤジの嬉しそうな声を聞いて、俺は、俺だけは騙されないと、意を固めながらそれを見下ろし続けていた。



俺の家に紛れ込んだ異物、「義助」という名の「弟」は、まるで子犬のような奴だった。好奇心旺盛で、何でも見たがり、触れたがり、放っておくとふらふらと何処かへいなくなってしまうような。お兄ちゃんだから、と我慢させられることも度々あり、俺は不服でならなかった。オヤジもオフクロもこれが家族ではないことが分かっているはずなのに、何故か俺に「弟」として扱うことを強要する。

そのため、俺は義助に殊更辛く当たっていたのだが、どういうわけか義助は、誰よりも俺によく懐いた。それがまた、俺を苛立たせる要因の一つとなっているとも知らずに。



その日は、オヤジと俺と義助との、三人で釣りに行く予定だった。

「忘れ物無い?」

オフクロの言葉に俺は、白いライトバンのボンネットを開け、中を確認する。

「大丈夫。餌も釣竿もクーラーボックスもちゃんと入ってるよ」

車に乗り込もうとした俺の肩を、オヤジが掴む。

「待った。義助がまだ来てないだろ」

「いいよ、あんな奴、放っておけば。遅いのが悪いんだ」

反抗的に吐き捨てた俺を見て、オヤジは眉を顰める。オフクロが義助を探しに家に戻るのを待って、オヤジは俺の頬を打った。

「勇助、いいか。お前は義助のたった一人の兄ちゃんなんだぞ。誰が義助の敵になっても、お前だけはあいつの味方になってやらなくちゃいけない」

さすがにここで言い返すほど俺は愚かではなかったが、不満が顔に出ていたらしい。オヤジは尚も言い重ねようとしたが、玄関先に義助の溌剌とした声が響いたのに気づき、声を落とす。

「いいな。義助を守ってやれ」

玄関から飛び出した義助が、俺の顔を見て悩みの無さそうな笑顔を浮かべる。こちらへ駆けてくる義助に背を向けて、俺は後部座席に乗り込んだ。

「いってらっしゃい」

「おう、夕飯は期待して待ってろよ」

玄関から笑顔で手を振る母さんの姿。義助は力一杯手を振り返し、後部座席に鎮座した。あの頃はまだ、チャイルドシートは一般的でなく、シートベルト着用に関してもそこまで厳しくはなかったので、義助は変な車があると言っては片方の窓に顔を引っ付け、犬が散歩していると言っては窓を全開にして身を乗り出し、落ち着くこと無くはしゃいでいた。

そして、山道に入って少しした頃。

話しかけても無視し続ける俺に飽きたのか、ようやく義助は大人しくなって反対側の窓にへばりついて外を眺め出した。俺は吐息をついてその背から目を逸らし、こちら側の窓から外を見やる。

オヤジもオフクロも、いつまでこんな「家族ごっこ」を続けているつもりなのだろう。こんなにも容姿に違いがあるのに、何故義助は欠片も疑いを抱かないのだろう。鬱々と黒い感情が心の奥に澱となって溜まっていく。

いっそのこと、義助なんて死んでしまえばいいのに。そうすれば俺も、煩わされないで済む。

一瞬心を過ぎった思いに、当惑して我に返った。そして、義助に目を戻した俺は、思わず声を漏らす。

窓から身を乗り出して一心に外を眺めている義助。その足が宙に浮いてぶらぶらしている。

「義助!」

反射的に叫ぶと、義助が振り返り、きょとんと俺を見つめる。

「義助、ばか!」

オヤジも義助の状態に気づき、声を上げるが、義助はぽかんとしたまま動かない。その体が、車体が揺れるのに合わせてぐらりと傾く。このまま行けば、義助は……。

「くそっ」

俺が義助の襟首を掴んで車内に引きずり戻すと義助はこてんと転がって俺の腕の中に収まった。直後。

衝撃が全身を貫く。

何が起こったのか、揺さぶられた脳みそが、真っ白に染まった視界が、世界から俺を切り離す。

完全に意識を手放す寸前、カーブを曲がってきたらしい大型トラックがバンの脇腹に頭をめり込ませているのが見えた気がした。



静寂。



誰かの声が耳障りに響き、心地好い眠りを妨げる。

義助か……?

薄く瞼を開けると同時にその考えを否定した。義助は俺の腕の中ですやすやと眠っている。

じゃあ、誰だ。……オヤジ?

身を起こそうとした途端、左腕に激痛が走り、思わず呻き声を上げた。見ると、俺の左腕は気持ち悪いほど腫れ上がり、赤くなっている。折ったのかもしれない。

その痛みに冷静になった俺は、次第に何が起こったのかを理解し始めた。ひしゃげた車体、割れた窓、そこから突き出した梢、その向こう遥か上方に見える引きちぎれ垂れ下がったガードレール。

事故。

脳裏に浮かんだ二文字は現実となった今でさえ実感が湧かない。

オヤジ……。

前部座席の合間から運転席を覗き込んだ俺は、絶句した。込み上げてきた嘔吐感に自由な方の右手で口元を押さえる。

オヤジは死んでいた。

運転席に突っ伏した首は捻じ曲がり、虚ろな目がこちらを見ている。頭部から流れ出した血がハンドルを赤く濡らし、その足元へと滴り落ちる。

その音で我に返った俺は、ごくりと唾を呑み込みオヤジから目を背けた。

どうすればいい。

警察に連絡……?

いや、それはトラックの運転手がしてくれているだろう。トラックの姿はここには無いから、恐らく助かっているはずだ。

じゃあ、俺は何をすれば……。

くそ、考えがまとまらない。

「できません!」

唐突に叫ばれたその声が、俺の思考を遮断する。俺と同じくらいだろうか。何でこんなところにそんなガキがいるんだ。

割れた窓から外を覗くと、運転席のドアの前に、二人の人間がいる。一人はシルクハットに燕尾服、ステッキを手にしたイギリス人らしき老紳士。もう一人が、声の主であろう少年であった。

「僕にはやっぱり無理です。こんなことは……」

拳を震わせ俯く少年に、老紳士が一見優しい目を向ける。

「だが、君とてご両親の仇を討ちたいのだろう? だとすれば、力は強いに越したことはない。我々継承者は血を飲むことで始祖の持っていたという強大な力に近づくことができるのだと、教えたはずだ」

血を飲む? 一体、何の話をしているのだろう。

少年が尚も顔を上げようとせずに黙りこくっているのを見て、老紳士は猫なで声で続けた。

「我々は君がそう望んだから、わざわざ危険を冒してこうして舞台を整えたのだよ。我々の好意を無駄にするつもりかね? さあ、どれでも好きなのを選ぶといい」

少年は渋々と頷くとこちらに首を廻らし、そして俺と目が合った。少年の目が見開かれる。

「どうした。早く選びたまえ」

俺に気づいた様子の無い老紳士に急かされ、少年は言葉を濁して俺から視線を逸らし、運転席のドアを引き開けた。青い顔でオヤジの上へと身を乗り出し、そしてその首筋へ口を近づける。

「やめろ!」

思わず叫んだ。

少年がびくりと身を震わせ、動きを止める。

「おや」

老紳士が真っ直ぐに俺を見据え、唇を歪ませて笑った。

「生きていたとは、運の良い……いや、悪いのか。哀れな子供達だ。だが、安心したまえ。すぐに父親の元へ送ってあげよう」

老紳士が折れ曲がったドアを外して手を伸ばしてくる。身が強張ってしまい、声が出ない。ゆっくりと近づいてくる掌が、俺の顔を掴もうとした。

その瞬間。
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