黄色の本

□Silver Second Succession
1ページ/4ページ


  ●プロローグ●



「義助!」

「義助、ばか!」

勇助と、父さんの叫ぶ声。ぶち撒けられた赤い色。咽るほどに濃厚な鉄の臭い。

「それは、嫌に決まってます。知らない人の子供を……」

困惑したような母さんの顔。



あの日、僕は……。



転校させられた先の中学で、僕は小学校時代の同級生と再会した。黄賀瑞季という、当時も昔も変わりなく男子に人気のある少女だった。
シロガネ
「銀くん、久しぶり」

瑞季は可愛い顔でくすくすと笑いながら第一声で言ってのけた。

「相変わらず、人殺した後みたいに暗い顔してるね」

その一言に、僕は吐き気がするほど腹の奥が熱くなってしまい、黙ってその場を後にした。

以降、こちらとしては彼女との接触は避けているつもりなのだが、向こうは全然お構い無しで、家が近所なのも災いし、今では承諾も無しに家にまで押しかけてくる有様だ。

この日も、家に帰り自室のドアを開けると、当然のように僕のベッドに寝転がってマンガを読んでいる瑞季の姿があった。父はもう亡くなって久しいし、母は海外を飛び回っており滅多に帰ってこないため、瑞季を家に上げた犯人は自ずと知れている。

ため息を吐き階下に目を向けると、リビングから顔を覗かせていた兄の勇助が、腕を組んだまま口の端を吊り上げて笑った。本当に、こちらの気も知らずに余計なお節介ばかり焼いてくれるものだ。

おまけに勇助は、最近ミケネコ宅急便でバイトを始めたせいか著しく逞しさを増しており、その筋骨隆々とした肉体が僕の貧相な体を意識させ、見る度に卑屈な劣等感を刺激する。

不快だ。

僕は僅かに眉を顰めて勇助から顔を背けると、ドアが閉まらないようにストッパーで固定して部屋に入った。

「あ、帰ってきたんだ。遅かったね。コンビニでエッチな本でも見てたの?」

マンガから顔を上げて瑞季が耳障りな甲高い声で言う。ピーチクパーチク小鳥みたいに煩い奴だ。

まあいい。そのうち帰るだろう。

僕は鞄を床に放り、ブレザーをハンガーに掛けると机に着き、ノートと英語の問題集を広げる。目新しい文法事項は特に無く順調に進んでいたが、四ページ行ったところで見知らぬ単語に出くわした。電子辞書を置いてあった場所に手を伸ばすが、無い。

「これをお探しですかー?」

顔を上げると、瑞季がベッドの上で手にした僕の電子辞書をひらひらさせていた。僕は立ち上がり、黙って瑞季の手から電子辞書を取り上げる。どうせこいつのことだ。妙な単語を単語帳に登録したに決まっている。僕は椅子に戻り、横目で瑞季を睨んだ。

「帰れよ、今すぐ」

瑞季は黒目がちな目を潤ませて身を起こす。

「ひどいよ、そんなに私のことが嫌いなの?」

「嫌いだね」

素っ気無く言って問題集に目を戻すと、瑞季はむうっと顔を顰めた。

「銀くんの意地悪。もう遊びに来てあげないんだから」

「大いに結構。っていうか、家に来る暇があるんだったら、ちゃんと教室掃除しろよ。いつもいつも他の奴に押し付けてさっさと帰りやがって」

「押し付けたんじゃないもん。向こうからやるって言ってきたんだもん」

瑞季は子供っぽく口を尖らせて拗ねたように言う。こういう仕草が可愛いという奴も多いが、僕には到底理解できない。どう見ても、ただの駄々っ子だ。

だが、僕のように感じる者は男子では少数派らしく、他のほとんどの連中は瑞季の外見とこうした動作に騙されて、貢がされたり使われたりしている。

そうした中で瑞季に冷たく当たる僕は好感を持てるらしく、よく女子連中に話し掛けられる。それは決して僕に対する恋愛感情によるものではなく、瑞季に対する敵対心からであるということは自明の理なのに、男子はそのことと、僕が瑞季の幼馴染であり彼女によく付き纏われているということもあって僕を毛嫌いしていた。

別に周囲がどうあろうと僕がどうなろうとどうでもいいが、元凶である瑞季がこれ幸いとそれまで以上に纏わりついてくるのには腹が立った。

そう、瑞季は自らの容貌や言動が周囲にどういう影響を与えるかということを自覚しており、それを利用する術に長けているという点で、これ以上無く性質の悪い女である。瑞季の美点は、僕を苗字で呼ぶことぐらいなものだ。僕は自分の下の名前が嫌いだった。

僕は言うだけ無駄と苦渋の滲んだ息を吐き出し、ベッドの端に腰を掛けて足をぶらつかせている瑞季を見やった。

「で、用件は何だ。手短に言えよ」

瑞季は猫のように目を煌かせ、無邪気そうな笑みを浮かべる。

「あのね、今度の日曜日、久那祭に行こうよ」

あまりに唐突な提案に、僕はシャーペンを持つ手を止めた。久那祭とは、この近所にある久那高校の主催する、地域全体を巻き込んだ大きな学祭である。

久那高校は父の母校だったので、小さい頃に何度か勇助と共に連れて行かれた覚えがあるが、僕の家は……そう、父さんが死んだあの日から家族でどこかに出掛けるなどということは無く、また、僕個人としても「家族との思い出の場所」に好んで行きたくなどなかったので、その付属中学に入学した勇助に準ずる事無く、電車で二十分の今の進学校に通い、敢えて近寄らないようにしてきた場所の一つであった。

瑞季は思考停止している僕の間抜け面を楽しむようにくすくす笑うと身を乗り出して後を続けた。

「どうせ部活もバイトもしてないんだから暇でしょ。私もその日は誰ともデートの予定入ってないから一緒に行ってよ」

高校受験を間近に控えた受験生が暇である訳がないだろう。

僕は精一杯呆れと怒りを込めた溜め息を吐き、瑞季から目を逸らした。

なぜ瑞季がこんなことを言い出したのか、心当たりが無いわけでもない。朱藤紅。詳しくは知らないが、瑞季が珍しく本気で好意を抱いている人間の一人がそこにいる。彼女が通っている高校がその久那高校だった。瑞季は受験の下見も兼ねて彼らに会いに行くつもりなのだろう。

それならば連れに僕を選んだのも分かる。彼らに会う時の瑞季は素に近い。瑞季は本性を見せても問題の無い相手として僕を選んだのだ。

断りたいのは山々だが、僕もまた彼女と彼女に近しい人達にはかなり世話になった口の人間なので行きたくないなどと言える訳が無い。

苦悩の末に承諾した僕に、瑞季は嫌味なほど綺麗な笑顔を残して帰っていった。

そして日曜日。

華やかな装飾の施された出店の並ぶ通り道、響く賑やかな掛け声、仮装に近い派手な格好をした呼び込みの人々、祭特有の浮かれた空気に身を浸して楽しむ訪問客。

僕はその中を瑞季の後についてのろのろと歩いていた。

「紅さん達のところに行くんだろ。場所も確かめないで勝手に歩き回ったら分からなくなるんじゃないか」

瑞季は返事もせずに、何かを探すように首を廻らせながらどんどん歩いていく。

「あ、見て見て」

促されるままに顔を向けるとそこには、西部劇に出てくる酒場のような外見のログハウスが建てられていた。突貫工事らしく、チョコレート色に塗られた丸太の隙間にもう少しくすんだ地の色が見えている。

「銀くん、入ってみよう」

駆け出した瑞季を追うようにして「TORTOISE‐SHELL DELIVERY and DRINK BAR」と書かれた看板の下を潜るとこれまた一見洒落た雰囲気の店内の様子が見て取れる。

丸いテーブルには馬鹿でかいジョッキが並び、トレイや重そうな段ボール箱を手にカウボーイに扮した厳つい店員達、注文に来た客達が忙しそうに行き来している。

しかし、よくよく見ると天井から吊り下がっているのは裸電球に手製の覆いを掛けただけのものだし、丸いテーブルは使い回しらしく年季の入った傷跡や染みがあり、カウボーイの扮装にしたってところどころドクロのスカーフだったりジーンズに有名ブランドのタグがついていたりして現代臭いのだが。おまけにこのカウボーイ達、カウボーイハットに猫耳を、お尻に尻尾をつけている。

ちなみに、壁に並べて貼り付けてあるポスターは賞金首のポスターではなく、「ビールみたいに泡立った緑茶」だの「ソルティドッグ風味のミックスブレンドジュース」だのと奇妙なメニューの殴り書きされた画用紙と、「学内どこでもいつでも誰にでもお届けします!」と書かれたミケネコ宅急便(久那祭用)の宣伝ポスターだった。何となく、嫌な予感がする。

「金の無い奴ぁゴーホームッ!」

声のした方に目を向けると、一人の店員が窓から客の一人を放り出したところだった。何も行動まで開拓時代を真似なくても、などと思いながら眺めていると、同様にその店員を見ている別の店員の姿が目に入る。

カウンター席で何故か林檎を剥いていた彼は、不意に振り返ってこちらを見た。彼は僕を見ると目を丸くし、やがて口元に笑みを浮かべる。

ああ、やっぱり。

見慣れたニヒルな笑みに、僕はうんざりとため息を吐く。

「勇助」

勇助は剥きかけの林檎と果物ナイフを紙皿に置くと、こちらへ歩み寄ってきた。

「義助、よく来たな」

僕は僅かに眉根に皺を寄せて勇助を見上げた。健康そうな浅黒い肌。くっきりとした眉毛に、癖のある黒髪。日本人離れした凹凸の顕著な目鼻立ち。本当に、何もかも僕と似ていない。

……それにしても、体がごついだけに、猫耳と尻尾が絶妙なミスマッチぶりを発揮しており、思わず笑ってしまいそうだ。

咳払いで誤魔化しつつ頭一つ分高い勇助の顔から視線を落とすと、目を眇めて瑞季を見やる。瑞季は驚いた顔で「わあ、偶然ですねー」なんて言っているが、僕にそんな演技が通じるなどと本気で思っているわけではないだろう。

不意に、勇助の視線が僕からずれた。僕の斜め後方で椅子を引いて立ち上がる音がする。振り返った僕は息をするのも忘れて立ち尽くした。

「義助、久しぶり」

そう言ってこちらに向かってきたのは、サングラスを掛けスーツを着た女性。

「何年ぶりかしら。私のこと、覚えている? お母さんよ」

サングラスを外しながら笑みを浮かべる。年齢を感じさせない洗練された身のこなしとハリウッド女優のような優美な微笑。忘れていない。忘れられるわけもない。

「まだそんな家族ごっこを続けるつもりか」

僕は擦れた声で言いながら彼女を睨んだ。彼女の顔から笑みが消える。

「隠す必要は無い。僕は知っている」

「義助、待って」

立ち去ろうとした僕の手首を彼女が掴む。視界が怒りで真っ赤に染まった。

「触るな!」

掴まれた腕を力任せに振り払う。真珠色のマニキュアが塗られた長い爪が僕の腕を掠める。宙に飛んだ血の一滴の向こうに、目を瞠って僕を見つめる彼女の黒い瞳があった。勇助によく似た、エキゾチックな顔立ち。脳裏に幼い頃の僕を襲った孤独感がよぎる。

そう、僕は勇助とも、この女とも、そして父さんとも……誰とも血が繋がっていなかった。それを知ったのは、父さんの葬式の席だった。



未だ何が起こったか理解できぬ内に葬儀の日となった。

言われるままに用意された服を着て、目を瞑り横たわった父さんの耳元に白菊の花を添え、車に乗って……気づけば、父さんは高温の炉の中に送られてしまっていた。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ