黒色の本

□虹色の館
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 家の裏の林は、しばしば迷い人が出ることで知られていた。何故かは知らぬが、どうやらあの林の中へ一歩踏み込むと、人は己れの方向感覚を失ってしまうらしい。私の歳の離れた長兄も、私がまだ幼子であった頃に林の中へ迷い込み、二度と戻っては来なかったそうである。そのため、あの林へは滅多なことでは入らぬよう、入っても家を見失う程までに遠くへは行かぬよう、子供の頃からきつく躾けられてきた。
 どういうわけか、私は使い古しの煙管だけを手に、林の中を流離う破目に陥っていた。恐らくは、大した理由ではなかったはずだ。麓の子供たちに乞われて秋胡頽子の実を集めに行ったとか、単に散歩に出たとか、どうせそんなところであろう。その頃の私には他人のことは勿論、自分が何をしているのかということさえも関心の外の出来事であった
 木々の葉に空を覆い尽くされた陰気な林の中は、人の来ない場所だけにひどく進み難い。視界を塞ぐように雑然と生えた木の幹、その間に僅かに残された場所さえ、苔や羊歯といった濃厚でいて精力的な緑に埋もれている。
 服を突き抜けて肌に刺さる植物の棘や、ともすれば汗ばんだ腕や顔に取り付こうとする虫ども、何処からともなく聞こえてくる葉擦れの音などに気を取られている内に、父が死に、あの粗末な家の唯一の住人となってしまった時のような空虚さを感じた。このまま家に帰れなければ、脆弱な私のことだから、いずれ果て、父や母、姉たちの元へと向かうことになるだろう。末期の父の、苦しみに醜く歪んだ顔が思い出される。そして、それを冷徹に観察していた自分自身も。どうしてか私には、死に対する恐怖というものも持ち得なかった。
 ともあれ、行けども行けども草木しか見えぬようなところをひたすら歩き続けるのにも飽いてきた。息をつける場所を求めて左見右見していると、不意に光るものが視界を過ぎった。よくよく注意して目を凝らすと、木々の隙間から、虹色の煌きが垣間見えている。灯に魅せられた蛾のように、蹌踉と歩み寄っていくと、それは次第に視界に広がって行き、その全貌が現れた時には、私の視界には収まり切らぬようになっていた。
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