黒色の本

□白い穴
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静かな夜、公園の一角。

ペンキの禿げかけたベンチに木蓮と呼ばれる女が一人、座って本を読んでいる。脇に立つ街灯には蛾が煩くはためきまとわりついているが、特に気にした様子も無い。だいぶ長い間そこにいたようで、もう半分ほど読み終えていた。

「なに読んでるの?」

木蓮の背後に、いつの間に現れたのか、虹と呼ばれる少年がいて、子供じみた仕草でベンチの背に手と顎を乗せ、彼女の本をのぞき込む。だが、木蓮はそんな虹の唐突な声にも驚いた様子は無い。

「『非行少年の心理』」

木蓮が答えると虹はからかうような笑みを浮かべた。

「僕みたいな?」

木蓮は笑って本を閉じる。

「君は非行少年なんだ? 不良なだけだと思っていたけど」

虹は不服そうな顔をしながらモスグリーンのロングコートをひらめかせて前の方に回り込んで木蓮の隣に座る。

「心外だな、不良だなんて。こんなに品行方正なのに」

「こんな夜中にうろついてるんだから、十分に不良だよ」

二人が並ぶと虹の幼い顔立ちが余計に目立つ。

「夜中にうろついているような不良は嫌い?」

「意地悪だな」

「あなたほどじゃない」

虹が大人びた笑みを浮かべると、木蓮は虹の首に腕を絡めて自分の方に引き寄せた。虹は従順に受け入れる。頬に触れる白く冷たい手も、かぶさってくる柔らかな唇も、全て。



二人が初めて出会ったのは、虚無な空気の残る朧月夜。この日も木蓮は同じ場所で読書をしていた。そしてやはり、モスグリーンのロングコートを着た虹が声をかけるところから始まる。

「サスペンス、ですね」

木蓮はちらりと振り返るが、またすぐに本に目を落とし、読み続けた。虹は臆する事なく続ける。

「知ってます? どこかの学者の説では、人がそういう話を好むのは、人の中に潜む狩猟本能とか殺人意欲とか、そういったものを疑似体験することによって満たす為だそうです」

木蓮は虹の言葉に無反応なままページをめくる。虹は人の良さそうな笑みを浮かべながらベンチに座った。木蓮と少しだけ距離を置いて。

「実際のところは僕には分からないんですが、あなたはどう思います?」

「私は」

木蓮は本を閉じ、小さく息を吐く。

「私には、狩猟本能や殺人意欲があるかと問われてもよく分からない。ただ」

虹に横目を向け、うっすらと微笑む。

「敢えて言うなら、むしろ自殺願望かな。『こんな風に唐突な死に遭えたら、何も気づかないまま死ねたらいいのに』って」

虹は面白がるように笑った。

「あなたは変わっているね。こんな質問に真面目に答える人、普通いないよ。しかも僕みたいな見知らぬ他人に」

木蓮もからかうように笑みを浮かべる。

「君みたいなかわいい子相手なら別に構わないんじゃないかな。それとも、無視してほしかった?」

虹は木蓮と目を合わせると、おどけて肩をすくめてみせた。

「五分五分かな」

そう言って立ち上がると虹は左腕につけた腕時計を見る。そして、うんざりとしたようにため息をついた。

「そろそろ戻らなくちゃ。怒られる」

木蓮はそんな虹の背を眺め、また本を開いた。虹は振り返ると、そんな木蓮を見つめて明るい声を出した。

「明日もここにいるの?」
「そうだな。君が来てくれるなら」

虹と木蓮は互いに見つめ合うとにっこりと笑った。

「じゃあ、また明日」



虹は必死に喘ぐ木蓮をただただ見下ろしていた。木蓮の腹部から流れ出る血が茫漠とした街灯の明かりに照らされ、黒くてらてらと光りながら乾いた土に吸収されていく様を、冷たく、感情の無い瞳で。木蓮は震える瞳で虹に何かを訴えるように、或いは何かを問いかけるように見つめていたが、見下ろす顔は逆光でよく見えず、しかし青白く動きの無いそれはまるで氷像のようで、木蓮の瞳に恐怖の色が見てとれた。

「僕たちは」

木蓮の目からだんだんと光が失われていく。そのまぶたを小さく震わせながら。

「間違っていたんだよ、ずっと」

木蓮は生にしがみつこうと必死に肺に空気を取り込む。

「恋なんかじゃなかった。僕たちはきっと」

だけどその呼吸は確実に死へと向かっていく者のそれであり、

「ただ、現実を認めたくなかっただけ」

喉を通過する空気の悲鳴のような音が空しく響く。

「世界に抗いたかっただけなんだ」

淡々と話し続ける虹の目は、生きた蝶を握り潰し、その残骸を冷静に観察している子供の目と同じ。

「最初から、全部間違っていたんだよ」

虹はそこで初めて表情をつくった。能面のように、感情の映らない微笑。



その日、いつものベンチ、いつもの約束の場所へと向かう虹の軽い足取りが、はたと止まった。いつもの場所に、いつもと違う光景があった。木蓮はベンチの上ではなく下に。腹から血を流して仰向けに転がっている。その顔が、立ち止まっている虹を見つけ、何かを伝えようと口を動かす。木蓮を見下ろすようにして男が立っていた。

その顔には怒りと絶望と狂気が。その手には、切っ先から赤い雫を垂らす血塗れた包丁。一目見れば、全身の細胞が口々に危険を告げてくれる。

それでも虹は立ち尽くしたままその光景を見つめていた。浮かんでいた笑みは消え去り今はただ、微かに目を見開き睫を震わせるばかり。

やがて男も木蓮の視線に気づき振り返り、突っ立っている虹の姿に目を止める。

「あいつか?」

男が僅かに震える声を発した。

「あんなガキの為に、俺を裏切ったのか? 今までずっとずっとお前に尽くしてきたのに。仕事だって毎日、毎日、毎日」

男の目に怒りと戸惑い、絶望が交錯している。木蓮は懸命に虹に何か言おうとしているが、出るのは苦しそうな掠れ声ばかり。それでも木蓮が何とか「逃げて」と声を張り上げた時、男は心が決まったのか、包丁を両手で握り締め、涙に濡れた目で虹を睨み、咆哮をあげながら突っ込んでくる。

虹は逃げようともせず、ただじっと立ち尽くしたまま俯き、やがて襟元のポケットに手をやった。

 銃声。

その余韻が消え果てた時、男は焦点を失い、前のめりに崩折れた。その眉間から血を噴き出しつつ。

暗い銃口からあがった硝煙が揺れながら風に溶けていく。無表情に銃を下ろすと、虹は木蓮の側まで歩いていき、足元の木蓮を見下ろす。その瞳には何の感情も映っていなかった。



木蓮はもう動かない。薄く開いた虚ろな瞳は虹を見つめたまま固まってしまっている。その顔にはもう何の感情も見出せない。

「満足できた? 殺されて、唐突な死に遭って」

答えは無い。だが虹は死者の視線から目を逸らそうともせずに、

「お休み」

虹は木蓮のまぶたに優しく触れ、その目を閉じさせる。木蓮の顔は白く、何も知らない人が見たら幸福な亡骸だと思うほどに穏やかな、静かな屍となった。虹はそっと手を離し立ち上がる。

「来世でまた会うことがあっても、もう……いや」

目線を落とし、木蓮の顔を見つめる。

「二度と会わないことを願うよ」

死体に背を向け、虹は歩きだす。後に残されたのは、ベンチと街灯と二つの屍と、一滴の透明な雫。それは次の瞬間にはもう、黒い土に吸い込まれ、消えていた。

<完>

 

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