黒色の本

□月に唄う 忘却の彼方
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「おかえり、チヒロ」
 木戸の開く音に振り返った僕は、入ってきた者がチヒロでないことに気づき、口を噤んだ。
「お前がナカナだな」
 それは、髭面の大男だった。見覚えは無い。
「こっちに来い」
 そいつは僕の髪を掴み、無理矢理引っ張った。僕はよろけて転びそうになるが、髪を掴まれているので途中で止まる。椅子が倒れて乾いた音を立てる。
 髭男はそのまま僕を引き摺って自分のエアモーターの後部座席に僕を括りつけると、エンジンを掛けた。
 腹の下辺りでエンジンの震える感触。エアモーターは高々と空に舞い上がる。下向きなのが悪いのか、空中飛行は思っていたよりも気持ちの良いものではなかった。というか、吐き気がするほど気持ちが悪かった。
 ようやくエアモーターが着陸し止まったときには、僕は完全にグロッキーになっていた。
「僕に何の用ですか」
 ようやくそれだけ言った僕を、髭男は無言で見下ろし、僕を縛り付けていた縄を解く。
 と同時に、再び髪を掴まれ引き摺り下ろされた。
「今日、俺の仲間が死んだ」
 髭男は怒りのせいか悲しみのせいか、真っ赤になった目で僕を睨んでいる。
「チヒロのせいだ」
 髭男はそう言いながら僕の腹部を蹴った。
「だから、代わりにお前を殺す」
 髭男は背に背負っていた破壊砲を構え、僕の右足の義足に向けて撃った。金属製の義足が粉々に弾け飛び、付け根の肉が抉れて微量の血が飛び散る。
「これで逃げられないな」
 そもそも片足に不具のある僕に、エアモーターまで持つ髭男から逃げる術などありはしないのだけど。
「ヴィーナの味わった苦しみの十分の一でも、お前にも受けさせてやる」
 僕はチヒロでもヴィーナでもない。それに、本当はもうナカナでなくても構わない。僕にその名を与えた人達は、もうここにはいないのだから。
 硬いブーツを履いた足に蹴られながら、何度も何度も蹴られながら、僕の心は宙を漂っている。
 身を守るように体を丸め、肩甲骨の辺りを蹴られている僕の無様な姿を眼下に見下ろしながら、心は宙を漂っている。
 ああ。
 僕は思った。
 ああ、どうして僕は……。
 滲んだ瞳に、赤い双眸が映る。
 燃えるように赤く光るその目は、僕と同じように泣いていた。少なくとも僕にはそう見えた。

「ナカナ!」
 呼ばれた名に瞼を開ける。
 今にも泣き出しそうなチヒロの顔が、そこにあった。
 きつく抱き締められ、疼いた痛みに思い出した。
 チヒロの肩越しに周囲を見渡すと、半分以下の高さになったビル群と、その周囲に散らばるコンクリート片が見える。
ネズミに喰われたのだ。
その瓦礫の中に、潰れたエアモーターを見て、僕は理解した。あの髭男はきっと、もういない。存在しない。
「何があったんだよ、ナカナ。何でこんなところに。この傷はどうして」
 チヒロは震えている。泣いているのかもしれない。
 僕はチヒロの背に手を回した。
 分かっている。チヒロは恐れているのだ。再び「家族」が奪われるのを。チヒロには「家族」が必要なのだ。だからこそ僕は拾われたのだし、だからこそ僕も恐れている。
 元の世界に戻り、チヒロに新たな「家族」を作る機会が訪れるのを。
 僕がひとりになるのを。
 共依存。それが不安定で危ういものであるのは分かっているが、他にどうしようもない。僕は何処にも行けないのだから。
「もう平気だよ。帰ろう」
 僕は微笑して、チヒロに言った。
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