黒色の本
□幻幽戯画
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宗一郎は、故郷を離れて久しい。高校卒業と同時に上京し、美大へと進学した。美大卒業後は、講師をしながらの地道な活動を続け、その努力と忍耐の結果、最近ようやく落ち着いてきたという具合である。
それ故、宗一郎は成功するまでは決して戻るまいと思っていた故郷、猩谷に久方ぶりに帰ろうと決めた。
東京の空は狭いというのは必ずしも正解ではないが、東京の空が濁っているというのは真実だ。煙草や下水や飲食店の軒先のごみ溜めの臭い、烏や野良猫の鳴き声を吸って淀んだ明け方の空の下、宗一郎は駅への道を早足で通り抜けた。
始発もほとんどまだ出ていないというのにちらほらと人影の見えるコンコースを歩いていると、不意に腕を引かれた。振り返ったが、どこにも人の姿は見えない。気のせいだったのだろうか。
「ちょっとちょっとどこ見てんの。ここだって」
小生意気な声に視線を頭三、四つ分下げると、こちらを見上げる少年と目が合った。
「旅は道連れって、言うよね」
未だ中学にも上がっていないだろう幼さに似合わない、どこか大人びた顔つきで笑う少年を見て、宗一郎はしまったと一人ごちる。
「オレがついていってあげるよ」
妙なのに目をつけられたものだ。己の不運を呪いながら、宗一郎は無言で踵を返す。
「ちょ、待ってよ。無視は良くないって。人間が何で言語っていうコミュニケーションツールを持ってると思うんだよ」
子供の癖に、やけに回りくどい言い方をする。周囲の大人の真似だろうか。
「他を当たれ」
スーツケースを掴まれ、多少大人気ないとは思いながらも、厳しい口調で言い捨てる。宗一郎の容貌も相まって、子供は大概こうすれば大人しくなるものだったが、宗一郎にとって運の悪い事に、この少年はその例に当てはまらなかった。
「父さん!」
手を放したかと思えば、少年は目を潤ませて叫んだ。
「父さん、なんでオレを置いてくの。オレが愛人の息子だから?」
茶番だ。こんな三文芝居、今どき昼ドラでもそうそうお目に掛かれまい。周りにいた人々が何事かと驚愕と好奇の色を滲ませた目をこちらに向けてくる。それに後押しされるように、少年の演技は熱を増した。
「嫌だよ、父さん。オレ、いい子にするから。ワガママも言わないし、ちゃんと言うこと聞くから。お願いだから、置いてかないでよ」
とうとう少年の瞳から大粒の涙が零れ、周囲からは非難の声が聞こえ始めた。勘弁してくれ。何故俺がこんな目に遭わねばならない。泣きたいのはこっちだ。宗一郎はなおもとんでもない出まかせが飛び出しかねない少年の口を押さえ、逃げるようにその場を後にした。