僕の記憶の扉

□第∞章
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  舟歌

 男は舟に乗っていた。ただ一人。他の舟もなく、周りには水以外何もない。
 男は海にいた。孤独という名の友を連れて。何も見えない。陸地も、鳥も。ただ真っ直ぐな水平線があるだけ。
 男には、国がなかった。帰る場所がなかった。男は国を追放されたのだった。ぬれぎぬをきせられて。
 男は思う。あの頃は楽しかったと。幸せだったと。でも、それもあの日が来るまでだった。
 悲しくなって男は泣いた。いつまでも、いつまでも・・・・・・。そしてその夜、夢を見た。数日前の幸せな時間を。
 妻と子どもの三人で仲良く暮らしていたはずなのに、ある日役人に呼ばれて行ってみると、ぬれぎぬをきせられ国外へ追放された。なぜなのか。自分は何か、法に背くようなことをしたのだろうか。覚えがない・・・。そして、男は悟った。これはワナだと。自分はぬれぎぬをかぶせられたのだと。男は怒った。全てのものを破壊しつくすほどに。全ての思い出が壊れるほどに。だが、もう戻れない。もう、二人の顔を見れない。もう、二度と。
 妻と子に何も言えなかった。けれど、あの時、一言でも伝えられたら、たぶん、こんなに二人のことを思い出しはしなかっただろう。
 男は泣いた。残してきた二人のことを思い、追放された故郷の国を思って。だが、もう男には流す涙が残されていなかった。一滴も。
 男を見ていた太陽と月が、男がもう辛い思いをしなくてすむようにとあの世へと誘う。
 男は舟に横たわり、空を見上げる。もう体・・・いや、指一本さえ動かすことを許されなかった。男の命はつきかけていた。
 空で瞬く星たちが、美しいと思う。男はあそこへ逝くのだ。故郷の二人に思いを馳せる。自分は、父は、先に逝ってしまうけれど、何年たってでもいい、待っていると。川を渡らずに待っていると。二人を、この世界で一番愛すべき二人を。
 もうだめだ。意識が朦朧としてきた。待っているよ。でも、あまり早くには、来てほしくないな・・・。じゃあ、一足先に逝ってくるよ。
 男は意識を手放した。夜の月と星々が瞬く中、男の体は動かなくなった。
 男の体は、冷たくなってゆく。
 

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