賜物部屋2

□night blue black
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「おめでとう」
 その言葉とともに薄いグラスが触れあい、透明な音を響かせる。それをありがとうと微笑みで受けて、グラスに口を付ける。
 触れた唇の先で弾ける、炭酸の泡。軽やかな口当たりのアルコールは、成歩堂の好みを知り尽くした御剣が選んでくれたものだ。
 肩が凝るからと外食をしたがらない成歩堂のために、取り寄せた料理は成歩堂が好きなレストランの料理だ。
 御剣が用意した心づくしの祝いの席。誰よりも成歩堂の無実が証明されたことを喜び、再び弁護士バッジを手にしたことを彼が喜んでくれている証拠だ。
 それをとても嬉しいと、思う。けれど同時にひどく心苦しい。
 捏造弁護士の汚名を着せられ、その恥辱を雪ぐのに七年もの月日を費やした。その間御剣はずっと成歩堂を陰ながらサポートし続けてくれた。
 表立って動けない成歩堂の為に、検事という職業を生かして情報を集めてくれたのも御剣であれば、最後の大舞台を仕立て上げてくれたのも御剣だ。時には叫びだしそうになる不安定な心と身体を、黙って抱きしめ続けてくれたのも御剣だ。
 公私に渡るその支援に、感謝の念は絶えない。しかしだからこそ、甘え続けていてはいけないのだと思う。
「成歩堂」
 名を呼ばれ、伏せかけていた視線を慌てて上げ、御剣の静かな表情を見て成歩堂は息を呑んだ。
 先程まで彼を彩っていた喜色も消え失せ、ただ静かに成歩堂を見つめる銀灰の瞳。
「…何か、私に告げることがあるのだろう?」
「みつ、るぎ…」
「言いたまえ。…覚悟は、出来ている」
 微笑みすら滲むような優しい声で告げられた言葉に、成歩堂は狼狽した。
 けして御剣は鈍くはない。もしかしたら気付かれているかもしれないとは思っていた。しかしキミと二人きりで祝いたいと言い、この場をセッティングした時の嬉しそうな笑顔からはその様子は微塵も感じられなかった。
 いつ気付いたのだろう。どうして気付かれたのだろう。少なくとも御剣が気付いたのが昨日今日の話ではないことはわかる。最悪の言葉を覚悟することが出来るだけの猶予があった。そしてその覚悟を抱えて、彼はこの席を用意した。
 この、別れの晩餐を。
「御剣…」
「ああ」
「ぼくと、…別れてほしい」
 告げた声は震え、無様にも語尾が掠れた。何度も頭の中でシミュレートし、繰り返した言葉だ。だというのに声に出したとたん、この様だ。彼の瞳すら見れないなど、お笑い種だ。
「お前には、感謝している。今までぼくを支えてくれたことはどれだけお礼を言っても言い足りないし、どうやってこの恩を返せばいいのかわからないくらい、本当に感謝しているよ」
 その気持ちに偽りはない。七年もの間御剣が支えてくれたからこそ、愛し続けてくれたからこそ、どれほど苦しくても真実を追いかけることができたのだ。
「七年間、本当にありがとう。ぼくはもう大丈夫だから…」
 続けて言わなければならない言葉が、咽喉の奥に詰まる。
 言いたくない。けれど言わなければならない。
 今まで愛してくれてありがとう。傍にいてくれてありがとう。もう充分過ぎるほどに愛も慈しみもぬくもりも受け取った。だから、
「もう、いいんだ。お前は、お前の幸せを手に入れてほしい」
「私の…、しあわせ…?」
「ああ。結婚して家庭を持って、そういう…幸せを、さ」
 激務をこなす御剣には家で待っていてくれる優しい人が必要だ。彼を癒してくれるあたたかな家庭が必要だ。
 けれど成歩堂はそれを御剣に齎すことはできない。二人ともそれを納得ずくでお互いを求めたが、それでも成歩堂はどうしても御剣に家庭を持たせてあげたかった。彼が家族というものに、そしてその温もりに飢えていることは切ないほどに知っていたから。その為にできることは、一つだけ。
 御剣の手を離すことだけしか、成歩堂にはできない。
「もう、終わろう。ぼくとお前の、幸せの為に」
 その言葉に対する御剣からの答えは、沈黙だった。ひどく長いようで短かい沈黙の後、御剣は目を閉じて深く息を吐いた後、わかったとそう言った。
「キミが別れを望むならば、別れよう」
「御剣…」
「…キミの望みは何でも叶える。かつて、そう誓った。その言葉を違えるつもりはない」
 その言葉に、七年前の記憶が蘇る。真実を突き止めたいと願った成歩堂に、御剣が愛と共に誓ってくれた約束。
 その愛の誓いを一方的に放棄されようとしている今なお、彼はその約束を違えるつもりはないと御剣は言う。
「ただその代わり、ひとつだけ、キミに諦めてもらわなければならないものがある」
「それは…、もう二度と、会いたくないってこと?」
 御剣の口から聞きたくなくて、自らその言葉を口にしたが、予想に反して御剣は違うと頭を振った。
「無論、キミが会いたくないというのならば消えるが、キミが望むのなら友人として傍にいよう。真実を追究し、この法曹界を正すために協力が必要だというのならば可能な限り手を貸そう」
 今までどおりなにも変わらずと告げる御剣に、成歩堂は訝しげに御剣を見た。彼の言葉を信じるならば、一番怖れていた彼の失踪もありえない。何を諦めろというのだと問えば、彼は静かに微笑んで、ひとつだけだと口を開く。
「キミがキミの幸福を望むならば、それに対して反論はしない。キミはキミが愛する人と幸せになれば良いと思うし、そうであるように願おう」
 けれどひとつだけ、諦めてくれと御剣は笑みを深くする。泣き出してしまいそうなその微笑みが、ぎりぎりと成歩堂の心を締め上げる。
「どうか…、どうかキミの望む私の幸せを、私に望むのは諦めてほしい。それだけは、キミの望みどおりにはできない」
 きっぱりと言い切られて、成歩堂は言葉を失う。しかしそれではダメなのだ。それでは、なにも変わらない。
「御剣、今は無理かもしれない。けれど、いつか…いつかキミが」
「成歩堂。それ以上は、言うな。それは私の幸福ではない」
 だからどうか望んでくれるなと乞う声に、なにも言えず成歩堂は唇を噛んだ。それを見咎めて、唇に傷がつくからやめろと御剣が窘める。けれどその後、彼はふっと瞳を細めて、もう私が言うことではないかと小さく零した。
 その呟きが、ぐさりと成歩堂の胸に突き刺さる。
 そんな小さな気遣いすらすることが許されなくなるような関係になるのかと、今更ながらに思い至る。
 御剣を手放す決意をしたと、思っていた。それが正しいことであると、一番良い選択なのだと心に決めた。それなのに感情は何ひとつ準備などできてはいないことを思い知らされる。
「成歩堂」
 名を、呼ばれることにすらこんなに心が揺れるのに。
 噛むなと言われた唇を、再びきつく噛む。こうしないとあらぬことを口走ってしまいそうで、怖い。
「手を、出してくれ」
 左手をと言われて肩が大げさなまでに震えた。いまだ左手の薬指に収まったままの指輪の存在が急激に重くなる。
「成歩堂」
 差し出された御剣の左手に、成歩堂はそっと自分の手を重ねた。御剣のいつも温かかった手が今はひどく冷たく感じて、息を呑んだ。瞬間、御剣の瞳に浮かんだ自嘲の陰りに、触れるのも嫌なのだと誤解されたのだと悟る。
「すぐ、済む」
 小さな声と共に、御剣の指先が成歩堂の薬指にはめられた指輪に触れる。指輪が僅かに回転し、ぴったりとくっついていた皮膚から離れていく感触に、咄嗟に彼の指を振り払うように手を握り締めた。
「成歩堂、手を開け。それでは外せない」
 開けと言われ、成歩堂は首を振る。
 この手を開いたら、御剣の愛情の証しである指輪が外されてしまう。それは御剣の愛情がこの身から消えることを意味している。
 外さなければならないことはわかっている。そうなることを望んだのは自分だと言うことも理解している。けれど。
「この指に嵌められる指輪はひとつだけだ、成歩堂。それはもう、キミの幸福には必要ないものだ」
「…っ、ぼくの幸せを勝手に決めるなッ!」
 咄嗟に口元を覆ったが、全ては遅きに失していた。叫んだ言葉はそのまま、自分の元へと戻ってくる。
 御剣の幸福を勝手に決め付け、別れを切り出したのは誰だ。愛情を奪おうとしておきながら、奪われることを拒む自分はなんだ。
「成歩堂…」
 名を呼ぶ声はこんな時までも愛情に満ち、どこまでも優しい。
 御剣の伸ばされた指先が頬を辿る感触に、自分が涙を零していることを知る。
「成歩堂、勝手に決めるなと言うならばキミの幸せはなんだ。キミはどうしたい。どうしたら、キミは幸せになれるのだ」
 その問いの答えなどひとつしかない。
 幸せなど、ひとつしか知らない。
「ごめん御剣、ごめん」
 ぼろぼろと大粒の涙が頬を伝う。一度堰を切ってしまえば、涙も言葉も止まらない。
「ぼくの幸せは、全部お前の犠牲の上で成り立ってしまう。お前には、幸せになってもらいたいのに、ぼくと一緒にいると、お前家族も、持てなくて…。ぼくは、お前になにもしてやれないのに、ぼくだけひとり、幸せで…っ」
 七年間。真実が解明されるかどうかもわからない状況で、何度自分の無価値さに泣いただろう。その度に優しく抱いてくれる腕に癒されて、けれど申し訳なさに縋ることも愛を告げることもできなくなっていった日々。それでも彼の愛情を一身に感じて、幸せだった。幸せだったのだ。
「成歩堂…、キミはまだ、私のことを好きでいてくれたのか?」
 恐る恐る投げかけられた問いかけの言葉は残酷だった。既に成歩堂の心が御剣から離れているのだと御剣に思われていたことを、成歩堂に教える。そしてそう思われてもしかたがない自らを顧みて、絶望が胸を塞ぐ。
「…っ、好きだよ、ごめん、好きでごめん。本当に、なにも返せなくて…っ、お前から、奪ってばかりで…っ!」
 愛されていないのだと、もう心は離れてしまったのだと思いながら、それでも愛し続けていてくれた御剣の深い愛情を思うと、成歩堂の胸は胸が張り裂けそうなほどに痛んだ。何時からかはわからない。けれどけして最近の話ではない。もうずっと長い間、成歩堂からの愛情を感じることができぬまま、愛されることすら諦めて、それでも傍にいて愛し続けてくれていたのだ。
 なんて、ひどいことを、御剣に強いてきたんだ、ぼくは。
「捨ててくれ御剣ッ、ぼくを捨ててくれ…ッ! お前に愛される価値なんてぼくにはもう…ッ!」
 別れてほしいなんて、そんな言葉すらおこがましい。御剣の望む家庭や家族も与えることができず、愛情すら伝えきれず、なにが幸せのためにだ。誰のための幸福を望むと言うのだ。
 両手で顔を覆い捨ててくれと嘆く成歩堂の耳に、かたりと椅子を引く音が聞こえた。御剣が立ち上がる気配に気付きながらも、向けられる背を見たくなくて顔を上げることはできない。
「成歩堂」
 思いのほか近くから声が聞こえ、泣くなと宥めるように頭を撫でられる。
「もう、いい。キミは自分を責めなくていい」
 こっちを向いてくれと腕を取られ、濡れた頬に手が添えられる。促されるまま上げた視界の中で、御剣が困ったように眉尻を下げて、泣き出したような笑い出したいような、そんな顔で成歩堂を見つめていた。
「キミはまだ…、私を愛してくれているのだな」
 指輪も外せないほどに、捨ててほしいと、願うほどに。
 その問いに、成歩堂は震えながら首を縦に振る。
「ごめん…」
「何故、謝る。謝る必要などない。その言葉だけで、その事実だけで私は…ッ!」
 強い力で引き寄せられ、成歩堂は御剣の腕の中に抱きしめられた。上擦る声と肩を掴んだ指にこもる力が、御剣の感情の高ぶりを如実に伝えてくる。
「幸せ、なのだよ、成歩堂…。キミが私を愛してくれるのならそれだけで、それだけが…っ、私の幸福だ」
 きつく抱きしめられている所為で、成歩堂には御剣の顔は見えない。けれどその声に混じる嗚咽が、御剣もまた泣いているのだと知らしめる。
「御剣、ごめん…ッ! いっぱい傷つけて、苦しめた…ッ!!」
「もういい、もういいから。まだ私を想ってくれているのなら、それで十分だ」
「みつるぎ…っ」
 力強い腕に抱かれ、愛していると告げられた言葉に何度も頷きながら、うわ言のように好きだよと繰り返す。もう離れられない、離れたくない。これ以上の幸福などあるものか。あったとしても、もうどうでもいい。
「成歩堂、どうか…いつまでもともに」
「うん…ッ!」
 死が二人を別つまで。いや、死が二人を別つとも永久にともにと願いを込めて、涙に濡れた接吻を交わした。


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