少年と海
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「そりゃお前、あれだ」
一度も染めたことのない黒が、潮風にゆれる。テトラポッドの上を器用に進む白いシャツの背中は、今日も汗で濡れていた。
「あれって何だよ」
革靴を襲う波しぶきに苛々しながら問いかえせば、返ってきたのはやはり指示語だった。
「だからあれ。つか、なんつーの?あれ」
「知るかよバカ」
やはりこいつは馬鹿だと思いながら、聞こえないように悪態をつく。二階の窓から飛び出しかけた時も思ったが、満ち潮なのにこんなところを歩こうとするあたり救いようがない。
「ん〜、なんだっけ、あれ」
ここまで出かかってんだけど、と身ぶりつきで呟く姿にいっそ感心した。緊張感の欠片もない。一歩足を滑らせたら、アウトだろう空間が、其処彼処に口を開けてんのに。
「まぁいーや」
結局思い出せなかったようで、黒髪をクシャクシャとかきながら彼は笑った。
「潮が干くまでにゃ、思い出すさ」
うっかり、あぁそうかよ、と返しかけた口が音を忘れた。不吉な予感が脳裏をよぎる。考えをまとめるのに、たっぷり十秒かかった。
「……ちょっと待て」
「何?んな恐ぇ顔して」
「まさか、潮が干くまでここにいよう、とか言い出さないよな」
いくらコイツでもそんな馬鹿だけはしでかさないだろう。半ば祈るような気分で言った瞬間だった。あっさりと、何の躊躇いもなく頷く馬鹿面が見えた。
「言ってなかったっけ」
「聞いてねーしオレまだ死にたくねぇっつの!」
焦って辺りを見回せば、たった今来た道を波が侵しはじめていて泣きたくなった。遅かれ早かれ今いるこの場所も沈むだろう。あからさまにフジツボに覆われてるし。
「大丈夫だって」
「だよな、今戻れば間に合うし」
「や、もうあっち水没してっから革靴壊れちまうし」
だからあっち、と指さした方角は、紛れもなくテトラポッドの先端部。
「溺れるわこの馬鹿!」
叫びながら身を翻す。そうしてようやく、もう戻れない状態にまで沈んだ、砂浜側のテトラポッドに気づいて愕然とした。
「大丈夫だって」
全くもっていつも通りの声が、背中ごしに聞こえる。
「何でか知らねーけど、彼処は沈まねーし乾いてっから」
「…はぁ?」
胡散臭い台詞に振り返れば、見慣れた笑みが遠くにあった。足元を浚うように来た波に、慌てて足を進めてしまい、笑顔が近付く。
「ようこそ。どこでもないこの場所へ」